東ドイツの政治家オットー・グローテヴォールOtto Grotewohl
グローテヴォールの肖像写真
(1950年10月30日)
生年月日1894年3月11日
出生地 ドイツ帝国
ブラウンシュヴァイク公国
ブラウンシュヴァイク
没年月日 (1964-09-21) 1964年9月21日(70歳没)
死没地 ドイツ民主共和国
東ベルリン
前職印刷工、陸軍兵士
所属政党 ドイツ社会民主党
ドイツ独立社会民主党
ドイツ社会民主党(再入党)
ドイツ社会主義統一党
称号・レーニン勲章
・カール・マルクス勲章
・祖国功労勲章 (ゴールド)
・ドレスデン市名誉市民
配偶者マルタ・ヴィッツ
オットー・グローテヴォール(ドイツ語: Otto Grotewohl、1894年3月11日 - 1964年9月21日)は、ブラウンシュヴァイク及びドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家。第二次世界大戦前にドイツ社会民主党の要職を務め、戦後はドイツ民主共和国(東ドイツ)の初代首相(Ministerprasident[1])となった。 グローテヴォールはヴァイマル共和国時代のブラウンシュヴァイク自由州の社会民主党(SPD)の政治家で、第二次世界大戦後はソ連占領地区の党支部長を務めた。1946年にSPDと共産党(KPD)の合併によるドイツ社会主義統一党(SED)の結成を主導し、1950年までKPD議長のヴィルヘルム・ピークとSEDの共同議長を務めた。1949年のドイツ民主共和国成立後は初代首相(閣僚評議会議長)を務め、1964年に亡くなるまでヴァルター・ウルブリヒト第一書記の下で実質的な政府首脳を務めた。 グローテヴォールは1894年3月11日のブラウンシュヴァイク公国(現ニーダーザクセン州)にプロテスタントの中流家庭で仕立屋の親方の息子として生まれ[2]、1908年から1912年まで印刷工の修業をした。修業生活後、グローテヴォールはドイツ社会民主党(SPD)に入党した。第一次世界大戦中はドイツ陸軍に従軍し[3]、1918年から1922年の間は社会民主党から離党したドイツ独立社会民主党(USPD)に属した。 1920年から1930年まで、グローテヴォールはブラウンシュヴァイク自由州(以前のブラウンシュヴァイク公国)の州議会議員となった。彼は1921年に州国民教育大臣(Minister fur Volksbildung)となり、1923年には内務大臣・法務大臣となってブラウンシュヴァイク自由州政府の多くの内閣で閣僚を務めた。また1922年にはUSPDの大多数の党員とともに社会民主党に再入党し、1925年10月31日、SPD代表エリス・バルテルスの死去に伴い、国会議員に繰り上げ当選し、さらに1930年9月の選挙で自ら国会議員に当選し、1932年7月、11月、1933年3月の選挙で再選を果たした。また、1928年には州保険庁の長官も歴任した。 1933年、ナチスの政権獲得とともに彼は職を解かれ、他のSPDの党員と同様にナチスの迫害を受けることになった。1933年3月23日、グローテヴォールはアドルフ・ヒトラーが制定した全権委任法(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)に反対票を投じたが、可決された。
概要
経歴
SPD時代
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