オットリーノ・レスピーギ
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オットリーノ・レスピーギ
Ottorino Respighi
オットリーノ・レスピーギ(1935年頃)
基本情報
生誕1879年7月9日
イタリア王国ボローニャ
死没 (1936-04-18) 1936年4月18日(56歳没)
イタリア王国ローマ
ジャンル新古典主義
職業作曲家指揮者
活動期間1893 - 1935
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オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日1936年4月18日)は、イタリア作曲家音楽学者指揮者ボローニャ出身で、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(『ローマの噴水』『ローマの松』『ローマの祭り』)が広く知られる。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。
略歴

ボローニャに生まれ、地元の音楽教師だった父親からピアノヴァイオリンの指導を受ける。1891年から1899年までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラをフェデリコ・サルティに、作曲をジュゼッペ・マルトゥッチに、音楽史を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得すると、1900年から1901年までと、1902年から1903年までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてサンクトペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。サンクトペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5か月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに1902年ベルリンで短期間マックス・ブルッフの薫陶を受けたとされているが、エルザ未亡人はこの説を事実ではないとして否定している[1]。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。1908年までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から1909年までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。

ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作のカンタータ『アレトゥーザ』(1911年)のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。

ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年にサンタ・チェチーリア国立アカデミア作曲科教授に任命されてローマに移住し、以後最晩年まで同地にて暮らした。1917年に交響詩『ローマの噴水』をローマで初演するが成功せず、自信を喪失するが、1918年、アルトゥーロ・トスカニーニによるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としての突破口を切り開くことができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚する。

1923年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長に就任し、1926年にも再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも1935年まで教職に就き、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス』(ラテン語: Orpheus)を上梓した。1932年にはイタリア王国学士院の会員に任命された。

晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギの作品はファシスト党政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだファシズムに深入りしてはいなかった。後半生はベニート・ムッソリーニのファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな党の批判者の支持も得て、批判者が自作を上演することを認めた[2]。『ローマの祭り』の初演は1929年にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。初録音は1942年フィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年NBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。

レスピーギの作品はアメリカ合衆国でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための『トッカータ』は、1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルクの指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な変奏曲『メタモルフォーゼ』はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品であった。

1936年1月までは作曲を続けていたが、その後は次第に病に蝕まれ、もはや新作を完成させることができなかった。同年4月18日に心臓病のため亡くなり、ローマに埋葬されたが、翌1937年には亡骸が郷里のボローニャに移葬された。
作風

初期の擬古典主義的な習作の後、ロシア滞在を経てレスピーギの音楽語法は変化を遂げた。自由な形式、拡張された和声法、振幅の大きい表現が、それ以後の作品を左右する要素となっている。さらにレスピーギ作品を代表しているのが、イタリア国内のヴェリズモからの離反である。イルデブランド・ピッツェッティジャン・フランチェスコ・マリピエロアルフレード・カゼッラとともに、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。当のレスピーギは作品中において複調的な傾向を見せており、管弦楽曲はとりわけフランス印象主義音楽(特にクロード・ドビュッシーモーリス・ラヴェル)の影響を感じさせるものの、鋭角的なオーケストラの色彩感覚は両者のそれと全く異なるものである。

また、レスピーギはイタリアにおける古楽復興の旗手でもあり、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、クラウディオ・モンテヴェルディアントニオ・ヴィヴァルディの作品のほか、ベネデット・マルチェッロの『ディドーネ』(イタリア語: Didone)を校訂して出版した。過去の作曲家や古い様式への傾倒から、レスピーギを新古典主義音楽の作曲家と位置付けすることもできる。レスピーギは、古典派音楽以前の旋律様式や(舞踊組曲などの)音楽形式を、近代的な和声法やテクスチュアと好んで融合させている。フランスで六人組が「新しい単純性」を、中でもウィーン古典派の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、レスピーギはイタリア古楽の復興、そして古楽の再創造・構成のために古い音楽を利用したのであった。


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