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オットマー・ヒッツフェルト
名前
ラテン文字Ottmar Hitzfeld
基本情報
国籍 ドイツ
生年月日 (1949-01-12) 1949年1月12日(75歳)
出身地レラッハ
選手情報
ポジションFW
代表歴
1972 西ドイツ アマチュア8 (5)
1972 西ドイツ B1 (1)
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
オットマー・ヒッツフェルト(Ottmar Hitzfeld、1949年1月12日 - )は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州レラッハ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代はアマチュア、及びプロ選手としてスイスや西ドイツでプレー。現役時代のポジションはFW。スイスで大学にも通い、数学教師のライセンスを持っている。選手生活を退いた後に指導者としての道をスイスでスタート。 SCツーク
経歴
ボルシア・ドルトムントでの実績が評価され、1998年にFCバイエルン・ミュンヘンの監督に就任。リーグ優勝4回、ドイツカップ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回、さらにトヨタカップを制覇するなど、同クラブの黄金時代に貢献した。その間、国外のクラブから度々監督就任の声が挙がったが、ドイツ語による選手との意志の疎通を信条としてその都度オファーを断った。
2004年にバイエルン・ミュンヘン監督を辞任。同年のEURO2004終了後に解任されたルディ・フェラードイツ代表監督の後任にも挙がったが、本人は固辞した。
他にもレアル・マドリードなど数多くのビッグクラブから監督就任のオファーがあったがそれを全て断り、ドイツ有料テレビ「PREMIERE」でサッカー・コメンテーターとして活躍。
しかしバイエルン・ミュンヘンのGMウリ・ヘーネスの説得もあり、2007年1月31日、不調にあえぐバイエルン・ミュンヘン監督に再就任した。
ドイツ出身だがスイスでの生活が長い。現在も住居はスイスのエンゲルベルクにあり、妻はスイス人。家ではスイス方言(スイスドイツ語)を話している。そのためスイス人であるとよく間違えられ、ドイツでも当初は「スイス人監督がドイツにやってきた」と報道された。1991年にボルシア・ドルトムントの監督に就任した際、スイス方言のサッカー用語しか知らず、標準ドイツ語のサッカー用語を学びなおさなくてはならなかった。
現在でもスイス国際放送のインタビューなどでは全てスイス方言で答えており、多くのスイス人はヒッツフェルトのことを「ドイツに出稼ぎに行っている自分達の国の監督」と考えている。スイスサッカー協会も長年何度もスイス代表監督として打診するもののなかなか実現できずにいたが、2008年のEURO2008終了後から2年間就任することが契約された。2010 FIFAワールドカップでは優勝したスペイン代表を倒す番狂わせを演出したがグループリーグで敗退した。その後契約を2014年まで延長。
2014 FIFAワールドカップ本大会後に監督キャリアに終止符を打った。
所属クラブ
TuSシュテッテン 1960-1967
FVレーラッハ 1967-1971
FCバーゼル 1971-1975
VfBシュトゥットガルト 1975-1978
ACルガーノ 1978-1980
FCルツェルン 1980-1982
指導歴
SCツーク 1983-1984
FCアーラウ 1984-1988
グラスホッパー・チューリヒ 1988-1991
ボルシア・ドルトムント 1991-1997
FCバイエルン・ミュンヘン 1998-2004
FCバイエルン・ミュンヘン 2007-2008
スイス代表 2008-2014
獲得タイトル
トヨタカップ優勝:1回 (2001)
UEFAチャンピオンズリーグ優勝:2回 (1997, 2001)
ドイツ・ブンデスリーガ優勝:7回 (1995, 1996, 1999, 2000, 2001, 2003, 2008)
DFBポカール優勝:3回 (2000, 2003, 2008)
DFLリーガポカール優勝:3回 (1999, 2000, 2007)
スイス・スーパーリーグ優勝:2回 (1990, 1991)
スイス・カップ優勝:3回 (1985, 1989, 1990)
スイス2部優勝:1回 (1984), スイス・スーパーリーグへ昇格