オックス
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「オックス」のその他の用法については「オックス (曖昧さ回避)」をご覧ください。

オックス
出身地 日本
ジャンルグループ・サウンズ、ロック、ポップス
活動期間1968年 - 1971年
レーベルビクターレコード

メンバー福井利男(ベース
岩田裕二(ドラムス
岡田志郎(ギター
野口ヒデト(ボーカル)
田浦幸(オルガン)

旧メンバー赤松愛オルガン
杉山則夫(ギター)
栗山純(ボーカル)

オックス(OX)は、グループ・サウンズ(以下GS)全盛期の1968年(昭和43年)にデビューしたグループ。メンバー、ファンが失神する場面があったため、「失神バンド」と呼ばれた。

英語で雄牛のことを指すグループ名の由来は諸説ある。その一つは、リーダーである福井利男が婦人下着メーカーの「シルバー・オックス」よりヒントを得たという説である。
メンバー

福井利男(リーダー、
ベース)- 1947年1月29日生まれ、滋賀県大津市出身。2022年5月、シンガポールで死去。

野口ヒデトボーカル) - 1950年11月27日生まれ。解散後、演歌歌手に転向し真木ひでとを名乗る。

赤松愛(本名:赤松義信、オルガン・ボーカル) - 1951年2月14日生まれ、兵庫県芦屋市出身。1969年5月に失踪・脱退。その後は家業を継いでいた。2022年7月、死去。

岩田裕二(ドラムス) - 1946年4月15日生まれ、滋賀県大津市出身。2023年9月、死去。

岡田志郎(ギター) - 1949年6月9日生まれ、大阪府枚方市出身[1]

田浦幸(本名:田浦久幸、オルガン) - 1950年10月30日生まれ。赤松の後任で、1970年より夏夕介の名でソロ歌手デビューと俳優活動を始め、解散後は完全に俳優へ転向した。 2010年1月27日、59歳没。

なお、デビューに際し、所属事務所とビクターレコード(当時の日本ビクター〈現在のJVCケンウッド〉の音楽レコード事業部、現在のJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の思惑から福井と岩田は1949年生まれ、岡田は1951年生まれ、赤松は1952年生まれと詐称した。
経歴

オックスはGSブームの1968年、「ガールフレンド」「スワンの涙」などがヒットし、野口ヒデトは沢田研二[注 1]萩原健一[注 2]、渡辺茂樹(チャッピー)[注 3]とともに、若い女性ファンの間で人気となった[2]

バンドの結成は1967年秋、キングスの元メンバーだった福井と岩田、そしてバンドが専属で活動していた大阪のサパー・クラブ「レンガ」の経営者であった清水芳夫が、方々からメンバーを集める事から始まった。

キングスは、滋賀県大津市出身で1964年9月に京都で活動を始め、主に京都「ベラミ」、大阪「ナンバ一番」などのジャズ喫茶で演奏を行う、関西では最古参のエレキバンドであった。キングスは1967年2月に上京し、9月には「アイ・ラヴ・ユー」で日本グラモフォン(レーベルはポリドール、現在のユニバーサルミュージックジャパン)よりレコードデビューする運びとなるが、福井と岩田は発売前にこれを脱退した。清水芳夫と相談の結果、新たなバンドを結成すべく、大阪、京都、神戸ジャズ喫茶でメンバーを探すこととなった。

まずは京都のダンス喫茶「田園」[注 4]に出演していたマッコイズ[注 5]ギタリスト杉山則夫と、同バンドのドラマーである岡田志郎が「リズムギター程度ならば弾ける」[注 6]ということで参加した。さらに、大阪のダンスホール「富士」で演奏していたハタリーズのオルガニスト赤松愛と、漫画トリオのバックバンドであった「木村幸弘とバックボーン」の専属歌手である野口ヒデトの噂を聞き付け、大阪「ナンバ一番」を訪れた福井は、「テル・ミー」でステージ狭しと転げ回る野口の姿を見て直感し、木村幸弘とバックボーンを辞めオックスへ来るよう促す。しかし、野口、赤松から良い反応が得られず、京都「田園」のバンド「サンダース」[注 7]にいた栗山純を11月1日よりボーカルに迎えた。後に赤松より改めて承諾の連絡があり、6人編成となった。

11月10日、「レンガ」のあったビルの社長の厚意により、屋上での音出しが始まった。猛練習の甲斐もあり、オックスは12月1日より27日まで「ナンバ一番」のステージに立ち、日に日に彼らの人気は上昇していった。この評判を聞き付け演奏を見に来た野口ヒデトが、リーダーである福井より熱心に口説かれ、翌1968年1月1日より10日間の「ナンバ一番」公演初日をもって正式なメンバーとなった。この時点ですでに栗山と野口がのちに「失神」と称される過激な演出を見せていたが、1月9日、ギターの杉山が家業を継ぐべく脱退した。続いて20日には「サンダース」に戻るべく栗山が脱退し、オックスは5人編成となった。

続いて同月下旬から2月にかけ、スウェーデンより来日したザ・スプートニクスの前座として京都[注 8]・神戸・姫路・大阪を巡業し、これらの公演会場で「楽器を壊し、アンプを倒す」といったオックスの過激な演出は話題を呼び、最終公演会場である大阪サンケイホールに至っては、多くの観客がスプートニクスではなくオックス目当てとなるほどであった。

この反応を見て、マネージャーとなっていた清水は東京進出を計画し、ザ・サベージパープルシャドウズが所属していた芸能プロ「ゼネラル・アート・プロデュース」(GAP)へ売り込みをかけ、梅田のゴーゴー・クラブ「ゴーゴー・メキシカン」で彼らのステージを気に入ったGAPと早々に契約する。3月初旬、オックスは東京のビクターレコードで録音を済ませ、3月17日の梅田「花馬車」での大阪さよなら公演の後、新幹線で上京した。

渋谷区富ヶ谷で合宿生活を始めた彼らは、川崎ダンスホール「フロリダ」でのステージを皮切りに、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の「ジャポップス・トップ10」で音楽番組に出演した。続いて、彼らにとって東京のジャズ喫茶初出演となる銀座ACBでは、僅か3人の観客相手ながら、高さ2.5mもの迫り式回転ステージより転げ落ち失神するなど、過激な演出を披露した。

1968年5月5日、デビュー曲「ガール・フレンド[注 9]が発売された。一方、ジャズ喫茶では、ステージ上の激しい動きから放心状態となり倒れ込む野口ヒデト、そして飛び乗っていたオルガンから転がり落ち気絶する赤松愛、そんな2人に触発されるかのように連鎖的に倒れていく残りのメンバー、というパフォーマンスを見せ、この前代未聞のステージにファンは熱狂し、瞬く間にオックスの存在は女学生[注 10]の間で大きな話題となる。

続いて6月23日には有楽町ビデオホールで「オックス・ファン・クラブ」結成の集いを開催し、[注 11]彼らの評判を聞き付け実に1200人ものファンを動員した。この日のステージで彼らの人気は決定的なものとなり、「ステージ上で気分が高揚、陶酔のあまり恍惚状態で倒れ込んでしまう」という特異なパフォーマンスは、「失神バンド」としてその名を轟かせるまでになっていた[注 12]

デビュー当初は赤松愛の人気が先行したが、2枚目のシングル「ダンシング・セブンティーン」を発売する頃には、人気の中心は野口ヒデトに移り、「ジュリー、ショーケン、ヒデト」の時代を迎える。彼ら3人の対談なども平凡明星などの雑誌でよく見られるようになった。[注 13]なお、GSメンバーの人気投票では、ワイルド・ワンズの渡辺茂樹(チャッピー)や、タイガースの加橋、瞳も、野口ヒデトに匹敵する人気があった。9月14日より全国6ヵ所での公演が始まり、初日の日比谷公会堂を始め各会場のステージで失神騒ぎを起こしたことから、マスコミは過剰なまでに彼らを「失神バンド」と書きたてた。

こうしてオックスは、タイガーステンプターズと共に、人気GSとして取り上げられるようになっていく。

あくまでもメンバーの「失神」は演技であったが、彼らが演奏する「テル・ミー」で本当に失神してしまうファンが現れ、これをきっかけに、11月10日の日比谷公会堂での公演より同曲を自粛した。


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