オッカムのウィリアム
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William of Ockhamサリーにある教会のステンドグラスに描かれたオッカムのウィリアム
生誕1288年頃
イングランド王国 オッカム
死没1347年 or 1348年
神聖ローマ帝国 ミュンヘン
時代中世哲学
地域西洋哲学
学派フランシスコ会
研究分野形而上学認識論神学論理学存在論政治学
主な概念オッカムの剃刀唯名論
影響を受けた人物

アリストテレストマス・アクィナスドゥンス・スコトゥスアベラール、ペトルス・アウレオリ、サン・プルサンのデュラン

影響を与えた人物

科学マルティン・ルターウィラード・ヴァン・オーマン・クワインジョン・ウィクリフ

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1341年に描かれたと思われるオッカムの似顔絵

オッカムのウィリアム(: William of Ockham、1285年 - 1347年[1])は、フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者哲学者。通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。
経歴

1285年イングランドオッカム村[2]に生まれる[3]オックスフォード大学で学ぶ。30歳を過ぎても命題集講師[4]の職にとどまっていた。と言うのは、ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミストトマス・アクィナスの継承者)の立場をとる学長、ジョン・ラットレルと対立していたからである。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では急進的な唯名論の立場に立つ。1323年、ジョン・ラットレルから異端だとして当時アヴィニョンにあった教皇庁に訴えられる。ローマ教皇ヨハネス22世と対立、1324年、異端審問のためアヴィニョンの教皇庁へ召還される。1326年、教皇は、オッカムの学説を異端として破門を宣告する。このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。

オッカムはフランシスコ会総長チェーザナのミカエルとともにアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストによって没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。
信仰と理性

オッカムのウィリアムは「信仰によってのみ人間は神学的真理に到達できる。神の道は理性に開かれていない、というのは神は何物にも縛られずに世界を創造することを選択して、人間の論理や合理性が物事から覆いを取るのに必要な法則に頼ることなくその世界での救済の方法を打ち立てるからである」と信じていた[5]。オッカムの神論は個人的啓示と信仰のみに基づいていた(彼は信仰と理性が矛盾しないという考えを支持していた)。科学のみが発見の方法であり、科学のみが神を唯一の存在論的必然物とみなすことができると彼は信じていた[6]
哲学的思索Quaestiones in quattuor libros sententiarum

スコラ派において、オッカムは方法と内容の両面において改革を唱道したが、その狙いは簡易化にあった。オッカムは数人の先行する神学者の著作、特にヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの著作、の多くを統合した。オッカムはスコトゥスから、神の全能性や恩寵といった概念、認識論や倫理学的意見を受け継いだ。しかし、予定説受難、普遍の理解、「ex parte rei」(つまり、「物の側の」)の特性、節約の原理といった分野では、オッカムはスコトゥスに反する意見を持った。
唯名論

個物を超越した普遍本質形相といったものではなく個物のみが存在するものであり、普遍は人間の心が個物を抽象して生み出したものであって心に外在する存在ではないという立場を強く主張したために、唯名論の開拓者であるオッカムを近代的認識論の父とみなす者もいる[7]。彼は形而上学的な普遍が実在することを否定して、存在論の縮小化を唱道した。オッカムは唯名論よりもむしろ概念論の唱道者とみなされることもある。というのは普遍は名前に過ぎない、つまり存在する実在物ではなくむしろ言葉に過ぎないと唯名論者が考えるのに対して概念論者は、普遍は心的な概念である、つまり名前は概念の名前であると考えるからである。ここで概念は心の中にのみであるが存在するものとみなされている。それゆえに、普遍概念は、人間の外部に存在する実在物ではなく、それ自体を理解することによって生まれ心の内で心がそれを帰するものを「前提」する内的表象としての対象を持つ。つまり、それはさしあたって自身が表す物の場所を持つのである。それは心を反映する行為を表す術語である。このゆえに普遍は単なる言葉でもなければ、コンピエーニュのロスケリヌスが言うような「セルモー(:sermo)」やアベラールが言う文の中で使われる言葉でもなく、実在物に対応する心的な代替物であり、反映の過程を表す術語である。このため、オッカムは唯名論者とも概念論者とも区別されて「記号論者」と呼ばれてきた[8]
存在論的倹約

オッカムが近代科学および近代の知的文化に対してなした一つの重要な貢献として、オッカムの剃刀と呼ばれるようになる、説明や理論構築の上でのケチの原理がある。バートランド・ラッセルの解するところでは[9]、この格言は、ある仮定された存在がなくても現象を説明できるならば、その存在を仮定する理由がない、つまり、常に原因、要因、変数が可能な限り最小となる説明を選ぶべきだということを言っている。彼はこの原理を存在論的倹約に用いた。この原理によれば必要以上に存在を増やすべきでない―「Entia non sunt multiplicanda sine necessitate」―ということになる。ただし、この著名な原理の定式化は現存するオッカムの著作のどこにも見出されない[10]。彼は次のように定式化している: 「自明(語義上は、それ自体を通じて知られる)であるか、経験によって知られているか、権威や聖典によって証明されるかしていない限り、理由がないなら何ものも仮定されるべきではないので[要出典]。」 オッカムにとって、唯一の本当に必要な存在は神であった。他のすべてのものは不確定である。そのため彼は充足理由律を受け入れず、本質と実在の区別を否定し、能動的知性と受動的知性というトマス・アクィナスの学説に反対した。彼の存在論的倹約の要求によって導れる彼の懐疑論は、人間の理性は魂の不滅性も神の存在、唯一性、無限性も証明できないという彼の学説の内に現れる。彼の説くところによればこうした真理は啓示によってのみ知られる。
自然哲学

オッカムは自然哲学に関する膨大な量の著作を書いており、そのなかにはアリストテレスの『自然学』の長い注釈書もある。存在論的倹約の原理に従って、アリストテレスの十のカテゴリーのすべてを使う必要はないとオッカムは述べている。たとえば、数学的存在が「現実」ではないために量のカテゴリーは不必要である。数学は実態や質といった他のカテゴリに適用されなければならず、そのため近代科学のルネサンスを予期する一方でアリストテレスが「メタバシス」を禁止したのを破る。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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