オタカル2世_(ボヘミア王)
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「オットカール2世」はこの項目へ転送されています。シュタイアーマルク辺境伯については「オットカール2世 (シュタイアーマルク辺境伯)」をご覧ください。

オタカル2世
P?emysl Otakar II.
ボヘミア国王

在位1253年 - 1278年
別号オーストリア公

出生1230年?
ボヘミア王国、ムニェステツ・クラーロヴェー
死去1278年8月26日
神聖ローマ帝国
オーストリア公領、デュルンクルート
埋葬 ボヘミア王国聖ヴィート大聖堂
配偶者マルガレーテ・フォン・バーベンベルク
 クンフタ・ウヘルスカー
子女クンフタ
アネシュカ
ヴァーツラフ2世
王朝プシェミスル朝
父親ヴァーツラフ1世
母親クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン
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オタカル2世(16世紀)

オタカル2世(P?emysl Otakar II., 1230年?[1] - 1278年8月26日[2][3])は、プシェミスル朝ボヘミア王(在位:1253年 - 1278年[4])、オーストリア公(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世ローマ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。大空位時代にローマ王に選ばれたカスティーリャアルフォンソ10世は母方の従弟に当たる。ドイツ語名Ottokar、ハンガリー語名Ottokarから、オットカール2世とも呼ばれる。

オーストリアを統治するバーベンベルク家の断絶後、オタカルは彼らの統治下にあったオーストリアシュタイアーマルクを獲得する。東方においてはドイツ騎士団の征服事業を支援し、東プロイセンに勢力を拡大した。1273年神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家ルドルフ1世と対立し、1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に敗れ、落命した。

オタカルはオーストリアの重要な支配者の一人として挙げられるが、彼の死後に書かれた年代記には偉大さとともに傲慢な人格も記される[5]。それらの年代記は、19世紀の劇作家フランツ・グリルパルツァーのオタカル像にも影響を与えた[6]
生涯
若年期

1247年末、オタカルは下級の貴族に擁立され、父ヴァーツラフ1世に対して反乱を起こす[7]。反乱の背景にはヴァーツラフに不満を抱く貴族の思惑、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立の影響が存在していたと考えられている[8]。オタカルは一度はヴァーツラフをマイセンに放逐するが、1249年に首都プラハに帰還したヴァーツラフによって反乱軍は打ち破られる。ヴァーツラフによって捕らえられたオタカルは監禁されるが、間もなく叔母アネシュカの仲裁によって親子は和解し、オタカルは釈放される[9]

他方オーストリアでは、1246年にバーベンベルク家出身のオーストリア公フリードリヒ2世が戦死した後、バーベンベルク家の男子継承者が断絶していた[10]。バーベンベルク家の2人の公女マルガレーテとゲルトルートにも公位の継承権が認められており、多くの公位請求者が2人に求婚した[11]1246年にオタカルの兄ヴラディスラフはゲルトルートと結婚するが、翌1247年にヴラディスラフは没する。領内の安定を求めるオーストリアの貴族はヴラディスラフの弟であるオタカルをオーストリアに招き[12]1252年2月にオタカルは20歳以上年上のマルガレーテと結婚する。
オーストリア支配

ゲルトルートはハンガリー王族であるルテニア侯ローマン・フォン・ハリチと再婚し、オタカルはゲルトルートを通してオーストリアに干渉するハンガリーと交戦した。1254年に教皇インノケンティウス4世の仲裁によってオーフェン(ブダ)の和約でボヘミア、ハンガリーは和約を結び、ボヘミアはトラウンガウとピッテン、ハンガリーはシュタイアーマルクを獲得した[12]。戦後オタカルは領内にラント平和令を発して領内の安定を図るが、次第に貴族に干渉し、教会、都市を優遇するようになっていく[12]。13世紀末のチェコでは君主が自由に課税できる特別所領(直轄領)と、領邦集会の同意を経たうえで課税できる一般所領の区別がされ、特別所領に含まれる都市は重要な収入源となる[13]。歴史研究家のフィアラはオタカルの治世に建設されたと思われる28の都市を列挙し、他のプシェミスル家の君主の時代よりも都市の建設が盛んに行われたことを指摘している[7]。ウィーンを領邦司教区に昇格させる、バーベンベルク時代から続けられていた運動にオタカルも一時期は駆り立てられたが、やがて昇格を断念する[14]

また、オタカルは1250年代にドイツ騎士団によるザーレラント進出を支援する[15]1255年に騎士団はプロイセン人がトゥワングステと呼んでいた土地に城砦を建て、騎士団はオタカルに敬意を表して「王の要塞」を意味するケーニヒスベルクカリーニングラード)と城砦に命名した[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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