オズワルド・モズリー
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イギリス政治家第6代準男爵
サー・オズワルド・モズレーSir Oswald Mosley
6th Baronet
庶民院時代のモズレー(1922年)
生年月日1896年11月16日
出生地 イギリス ロンドンシティ・オブ・ウェストミンスターメイフェアのヒル・ストリート (Hill Street) 47番地
没年月日 (1980-12-03) 1980年12月3日(84歳没)
死没地 フランス パリ近郊のオルセー
出身校サンドハースト王立陸軍士官学校
所属政党(保守党→)
労働党→)
(新党(英語版)→)
イギリス・ファシスト同盟→)
連合運動(英語版)
称号(アンコーツの)6代準男爵
配偶者シンシア(旧姓カーゾン)(英語版)
ダイアナ(旧姓ミットフォード)
親族初代カーゾン侯爵)、第3代レイブンズデール男爵(長男)
ランカスター公領大臣
内閣ラムゼイ・マクドナルド内閣
在任期間1929年6月7日 - 1930年5月19日
庶民院議員
選挙区ハーロー選挙区(英語版)
スメスウィック選挙区(英語版)
在任期間1918年12月14日 - 1924年10月29日
1926年12月21日 - 1931年10月27日
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第6代準男爵サー・オズワルド・エーナルド・モズレー(: Sir Oswald Ernald Mosley, 6th Baronet、1896年11月16日 - 1980年12月3日)は、イギリスの政治家。イギリス・ファシスト同盟の指導者として知られる。モズレーはモズリーとも表記される場合がある。

小説家の第3代レイブンズデール男爵ニコラス・モズレーは長男、国際自動車連盟(FIA)元会長マックス・モズレーは四男である。
略歴
生い立ち

1896年11月16日、第5代準男爵サー・オズワルド・モズレーとその妻キャサリン(旧姓エドワーズ=ハースコート)の長男としてロンドンに生まれる[1]。生家のモズレー準男爵家についてはモズレー準男爵の項目を参照。

パブリック・スクールウィンチェスター・カレッジを経てサンドハースト陸軍士官学校へ進学した[1][2]第一次世界大戦に従軍し、塹壕戦や空中戦を戦ったが、戦闘機の着陸事故で片足が不自由になったことで20歳の頃の1916年に除隊となり、軍で出世する道は閉ざされた[2]
保守党議員時代

22歳の時の1918年に行われた総選挙でハーロー選挙区(英語版)から当選し、保守党所属の庶民院議員となり、1924年まで同選挙区から選出された[1][2]モズレーと最初の妻シンシア(英語版)

1920年には保守党の大物政治家である初代ケドルストンのカーゾン侯爵ジョージ・カーゾンの娘シンシア・ブランシュ・カーゾン(英語版)と結婚(のちに労働党選出の代議士となる。3人の子をもうけたが、シンシアは1933年に腹膜炎で死亡)[1][3]
労働党議員時代

1920年に退役軍人救済を行わない保守党に失望し、妻とともに保守党を離党して労働党へ移籍した[4]

1926年にスメスウィック選挙区(英語版)から再度庶民院議員に選出される(1926年 - 1931年)[1]

1928年9月21日に父が死去し、第6代準男爵位を継承する[1]

1929年に労働党のラムゼイ・マクドナルド内閣にランカスター公領大臣として初入閣を果たす。当時イギリスでは失業者数が250万人を超えており、その雇用問題を担当した[4]

公共事業による失業者救済、政府計画に基づく経済再建などを提案した[5]。これは労働党の雇用政策を一世代先取りしたような革新的提案だったが、その提案は却下された。労働党の保守的な体質に幻滅したモズレーは、1930年に大臣を辞して離党した[4]
新党創設1931年3月16日の『タイム』の表紙を飾ったモズレー

より強力な政府による統制経済を主張するモズレーは、ジョージ・バーナード・ショーウィリアム・モリス(後の初代ナフィールド子爵)らの後援を受けて、妻とともに「新党(英語版)」を結成した[6]

だが翌1931年総選挙では、新党は自らを含めて候補者全員が落選の憂き目に遭う[6]


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