オスヴァルト・シュペングラー
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オスヴァルト・シュペングラー
人物情報
生誕 (1880-05-29) 1880年5月29日
ドイツ帝国
ブラウンシュヴァイク公国
ブランケンブルク
死没1936年5月8日(1936-05-08)(55歳)
ドイツ国 ミュンヘン
学問
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オスヴァルト・アルノルト・ゴットフリート・シュペングラー(: Oswald Arnold Gottfried Spengler、1880年5月29日 - 1936年5月8日)は、ドイツの文化哲学者歴史学者

アメリカ合衆国ロシアソ連)といった非ヨーロッパ勢力の台頭を受けて書かれた主著『西洋の没落』は、直線的な考え方である当時のヨーロッパ中心史観・文明観を痛烈に批判したもので、その影響は哲学歴史学文化学芸術など多方面に及んだ。
生涯

ブラウンシュヴァイク公国ブランケンブルクの生まれ[1]。父は鉱山技師で、中流家庭の出身であった。保守的な価値観の家庭で育ち自身の思想にも影響を与えた。幼少期にハレに移住し、ハレ大学ミュンヘン大学ベルリン大学の各大学に学び、哲学・歴史学・美術・音楽・数学などを学び、1904年に「ヘラクレイトス─彼の哲学のエネルギー論の根本思想に関する研究」で学位取得[2]

学位取得後、デュッセルドルフハンブルクなどの高等学校で教鞭をとるも、1911年には教職を辞して以降は、著述と思索のなかで生活をする。

第一次世界大戦の戦時中に書かれた『西洋の没落』(Der Untergang des Abendlandes) 第一巻が1918年に発表されると、広く読まれた。「西洋の没落」は「全地球に広がっているヨーロッパ・アメリカ文化の没落の分析」であり、その目的は世界史の比較形態学とされた[3]

第一次世界大戦でドイツが敗戦すると、シュペングラーは伝統的なプロイセン保守主義にとらわれない新しいナショナリズムとしての「プロイセン的社会主義」を展開し、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックらとともに保守革命と呼ばれる思想の一角を形成する[4]

1936年にミュンヘンにて心臓病のため死去。55歳であった。
プロイセン的社会主義

シュペングラーは「プロイセン的特性と社会主義」(1919)で社会主義はドイツ(プロイセン)の伝統的な徳性であり、ドイツを19世紀イギリスの唯物論と実証主義の産物であるマルクス主義から解放すべきであるとした[5][6]

シュペングラーによれば、マルクスは社会主義というプロイセン的な概念を「プロレタリアート」に帰属させ、資本主義というイギリス的な理念をブルジョワジーに帰属させたことで、ドイツ的精神とイギリス的精神の人種的矛盾を誤って転写し、生の心理的次元を欠いていると批判し、またドイツ人における「内なるイギリス」に反対した[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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