オスロ
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オスロ
都市

Oslo kommune

オスロ市街地のパノラマ、Oslo Plaza, カール・ヨハン通り、National Theatre, オスロ市庁舎、Grunerlokka, アーケシュフース城、カール・ヨハン通り、国会議事堂, オスロ・オペラハウス




徽章
ノルウェーにおける
オスロ県の位置


オスロ県におけるオスロの位置
国 ノルウェー
オスロ県
地区エストラン (ノルウェー)
行政
 ? 市長 (2023年現在)アンネ・ランボー(英語版) (保守党)
面積
 ? 計454.12 km2
 ? 陸地426.40 km2
 ? 水面27.72 km2  6.1%
人口(2023年)
 ? 計709,037人
 ? 順位ノルウェー内第1位
 ? 密度1,600人/km2
 ? 人口推移(10年間)人口密度13.6 %
等時帯中央ヨーロッパ時間UTC+01:00
 ? 夏時間(DST中央ヨーロッパ夏時間UTC+02:00
ISO 3166コードNO-0301
公用語中立
ウェブサイト ⇒oslo.kommune.no
Statistics Norwayのデータ

オスロ(ノルウェー語: Oslo ノルウェー語発音: [2u?lu] ( 音声ファイル))は、ノルウェー王国首都。旧称はクリスチャニア、クリスティアーニア(ChristianiaもしくはKristiania)。ノルウェー最大の都市で、王宮、行政、立法、司法などの機関が集まる。またオスロ市は単独でオスロ県を構成する。世界でも物価の高い都市のひとつであり、北欧の主要都市の1つに数えられる。
オスロ都市圏、大オスロとオスロ市

オスロの人口は709,037人(2023年[1])で、ノルウェーの人口の12.9%を占める。オスロ市の人口は現在も毎年約1万人ずつ増え続けており、この増加ペースはヨーロッパでもかなり速い。オスロ都市圏は郊外に拡大しつつあり、近隣のアーケシュフース県の都市(バールムアスケー、ソルム、オッペゴールなど)とは市街地でつながっている。都市圏全体での人口は1,043,168人[2]。オスロ都市圏はオスロフィヨルドを取り囲むように広がっている。オスロ都市圏の外側を含めた大オスロは6,920 km2に広がり、人口は112万人を超える。ノルウェーの人口の50%がオスロから120km圏内に住んでいる。
地名の由来

オスロという地名の由来としては、古ノルド語から来ている、オスロ中心部、ビョルヴィカにつくられた最古の農場の名前であるなど、様々な説が存在する。中世には'Aslo'と綴られていたが、後に'Oslo'となった。初期のスペルの'as'は、エーケベルグの尾根のふもとに町があることを示唆するという説や、同音異義語の「神」や「神格」に由来するものだという説もある。現在有力なオスロの意味は、「尾根の下の牧草地」もしくは「神の牧草地」であり、どちらも決定的ではない。

1624年の大火では多くの市民や町が失われ、市の中心はアーケシュフース城の近くに移転された。デンマーク=ノルウェー王であったクリスチャン4世は、再建された都市を「クリスチャニア」(Christiania)と改名した。1878年からは「Kristiania」の綴りも使われた。公式の裁定がなされなかったため、統一されることはなかった。クリスチャニアは1924年の法改正で「オスロ」に改称されることが決定し、1925年1月1日から施行された。私が少年の頃、ノルウェーの首都はクリスチャニアと呼ばれていた。しかしある時からノルウェー人はその美しい名前を捨て、オスロと呼ぶようになった。 ? ロアルド・ダール、『少年』

都市はかつてとても寒く、危険な都市であったために1870年代にビョルンスティエルネ・ビョルンソンによって「虎の都市」(Tigerstaden)と渾名された。この名前は数年後には公式に呼ばれるようになり、街の創立1000年記念事業ではシティホールのまわりには虎の彫刻が製作された。1890年代、街にホームレスや乞食(Beggar)があふれ出すと、「虎の都市」をもじって"Tiggerstaden"もしくは「乞食の都市」(Beggarstaden)と揶揄されるようになった。このころの街の様子はクヌート・ハムスンの『飢え』に描かれている。
歴史

ノルウェーのサガによると、ハーラル3世によりオスロが設立されたのは1049年のことである。しかし近年の考古学調査によれば、キリスト教の葬式が1000年よりも前に行われていたことが分かった。このことから、2000年にはオスロ千年祭が行われた。当時のオスロの町はビョルヴィカの入り江の東にあるガムレビエン地区に建っていた。

オスロが公式に首都となったのはホーコン5世の時代(1299年 - 1319年)である。彼は最初にオスロに常住した王でもあり、アーケシュフース城の建設を指揮した。後にノルウェーはデンマークから内政干渉を受けるようになり、同君連合において王宮はコペンハーゲンに置かれ、オスロは州都に降格、デンマーク本土に比べて都市の成長が停滞する。これはノルウェー全体に対しても同じことがいえる。オスロ大学1811年まで建設されなかったことを見ても、それは明らかである。

オスロは何度か大災害に見舞われている。1624年の大火は被害が大きかったが、クリスチャン4世による復興で、市街地はかつての場所から現在の場所に移転し、碁盤目状の街路が作られた。この際に街はクリスチャニア(Christiania)に改称され、文化と貿易の中心として発展を遂げた。1624年以降に構築された都市はその直角、直交する道路などからKvadraturenと呼ばれることがある。1814年にデンマークとの連合が解消され、スウェーデンとの同君連合下での自治を獲得すると、クリスチャニアは再び名実ともに首都となった。宮殿、議事堂、オスロ大学、国立劇場やオスロ証券取引所などの有名な建物はこの時代に建築された。この時代にオスロに在住していた文化人には、ヘンリック・イプセンクヌート・ハムスンなどがいる。

1842年、クリスチャニア県としてアーケシュフース県より独立した[3]1850年にはベルゲンを抜き、一番人口の多い都市に成長した。ノルウェーの完全独立後の1925年1月1日、オスロの名に復した。この際県名も同じくオスロ県に変更された[3]

1940年4月9日ナチス・ドイツはノルウェーに侵攻を開始(ノルウェーの戦い)。同日、国王ホーコン7世とノルウェー政府はオスロを無抵抗で放棄、ハーマル市を仮首都と定めて移動を開始した[4]
政治詳細は「:no:Politikk i Oslo」を参照

オスロは市(基礎自治体)であると同時に、(fylke)でもある。オスロ市は議院内閣制を参考とした行政システムが導入されている[5][6]

オスロ市長はオスロの代表者で、市議会議長を兼任する[5][6]。2023年現在のオスロ市長(Ordforer)はアンネ・ランボー(英語版)(保守党[7]。市長は市議会が任命する[8]。「オスロ市長」も参照

立法府はオスロ市議会(ノルウェー語版)(Oslo bystyre)で、選挙によって選出された59人の議員から成る。


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