オスマン建築
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オスマン建築(Ottoman Architecture)は、14世紀から19世紀までのオスマン帝国の勢力下において見られる建築サファヴィー朝ペルシャ建築、ムガル朝インド建築とともに、イスラーム近代建築の一角を形成している。

それまでのイスラム建築よりも、論理性や幾何学的秩序を重んじる傾向が認められ、イスラーム世界(ダール・アル・イスラーム)の盟主となったスレイマン1世(Suleyman 1)の時代には、他のイスラム建築にも西ヨーロッパの建築にも見られない独自の空間を形成した。また、末期に至るまで、東ローマ帝国の大聖堂であったアヤソフィアを例外として、他の建築様式からの影響をほとんど受けなかった。

ヨーロッパ列強国の干渉を受けるようになった18世紀末になると、ヨーロッパ化した貴族階級によってバロック建築ロココ建築の装飾を取り入れた住居建築が建てられるようになったが、このような混淆様式の住宅形式が現代の住居建築、特にフランク・ロイド・ライトに影響を与えたとする話もある[1]エディルネにあるセリム2世のモスク
概説

トルコ建築を大きく前期と後期とに分ける場合、その後半を占めるのがオスマン建築である。イスタンブールとその近郊都市に建設された巨大なモスク(現代トルコ語では、都市の街区や村の中心となる大型のモスクのことを、ペルシア語で「金曜礼拝モスク」を意味するマスジド・イ・ジャーミイに由来する、「ジャーミー(ジャーミイ)」という名詞で呼ぶ。以降モスクをジャーミーと表記する。)が印象的であるが、ジャーミーを中心としたマドラサ(メドレセ)、病院、救済施設を融合した複合施設であるキュッリイェといった建築群、キョシュクの集合体としての宮殿、そして住宅建築もオスマン建築を特徴づける建築物である。

オスマン帝国の建築の起原は、ルーム・セルジューク朝の建築とセルジューク朝のペルシャ建築からデザインを借用したもので、政治的な安定を得るまでは、独自の意匠は開拓されなかった。東ローマ帝国の建築(ビザンティン建築)については、その関係があまり明確ではないものの、少なくとも初期の段階においては、ほとんど影響を受けていない[2]。コンスタンティノポリスを征服して東地中海の覇者となり、壮麗者スレイマン1世のもとオスマン帝国が絶頂期を迎えると、オスマン建築はその意匠だけではなく、優れた社会施設や建築技術を開花させた。その代表的な建築が、16世紀の傑出した建築家ミマール・スィナンによって確立された帝室のジャーミーで、皇帝(トルコ語ではパーディシャーというが、日本では一般にはスルタンと呼ばれる)の名を持つ巨大で壮麗な建築が次々と建設された。スィナンはアヤソフィアの意匠と構造を参考にして、オスマン建築におけるジャーミーの様式を決定付けるなど、アヤソフィアから多大な影響を受けたがアヤ・ソフィアはビザンツ建築の中でも特殊なのものであり他の一般的なビザンティン建築は、模倣の対象としてではなく、想像力をかき立てるものとして利用された[3]。しかし、アヤソフィア以外のビザンティン建築とオスマン建築の関連はかならずしも明確ではなく、実際に、スィナンもその建築においてアヤソフィアの構成を借用しながら、当然ながら他のビザンツ建築にみられる一般的なビザンツ的要素をことごとく排除した[4]

16世紀以降、オスマン帝国は緩やかに衰退していくが、スィナン没後のオスマン建築もまた衰退し、その意匠は緊張感の欠けるものとなる。やがてジャーミーに代わり、スルタンや有力政治家の住居、邸宅の建築が盛んになり、ボスポラス海峡沿岸には豪華な邸宅建築が並ぶようになった。オスマン帝国末期には、ヨーロッパ列強の影響力を強く受けるようになり、アルメニア正教徒のバルヤン一族によってヨーロッパ風の宮殿建築が建設されるようになった。しかし、意匠的にはバロック建築を参照しているものの、その平面計画はオスマン伝統のものであり、オスマン建築はその独自性を最後まで失うことはなかった[1]
歴史
初期のオスマン建築

オスマン帝国の成立時期は明確ではないが、地理的にはルーム・セルジューク朝東ローマ帝国が国境を接するアナトリア半島西部に成立し信仰戦士、つまりガーズィーの称号を得るほどの軍事組織であったとする説が有力である。オスマン1世からオルハンムラト1世に至るまでの間に、オスマン帝国は勢力を拡大し、ルーム・セルジューク朝と東ローマ帝国の勢力範囲を逼迫した。
オスマン帝国黎明期の建築

オスマン帝国ではじめて作られはじめた建築は、ルーム・セルジューク朝のイスラーム建築を直接の起原としている。1333年イズニクに建設されたハジュ・オズベク・ジャーミーは、最古のオスマン建築とされており、ドームを扇形のスクィンチで支えるシングル・ドーム形式を採用している。これは15世紀以降に大規模に用いられるようになるが、その起原はルーム・セルジューク朝の建築に遡るので、ビザンティン建築の影響を受けたものではない。また、交差イーワーン・モスクと呼ばれる交差軸上にイーワーンを持ったジャーミーが確認されているが、これもルーム・セルジューク朝のマドラサにみられる建築手法である。

キュッリイェはムラト1世の治世において、はじめて建設された。1366年からブルサ近郊のチェキルゲで起工されたキュッリイェは、ジャーミー、マドラセ、エスキ・カプルジャ、救貧施設(イマーレット)、クルアーン学校(メクテプ)によって構成されている。これらの施設は宮殿に隣接しているが、どれも丘陵地のあちこちに点在しており、系統立てて建設されているわけではない。

1391年頃にバヤズィト1世がブルサに建設したキュッリイェも、同様にばらばらの配置となっている。しかし、バヤズィト1世のキュッリイェでは全ての施設は積石構造となり、随所に仕上げ材として大理石が用いられた。マドラサについてはこれ以降オスマン帝国で建設されたマドラサの典型となるもので、居住房の全面をドームの連続する回廊(リワーク)が取り巻き、講義室(デルスハーネ)が設置された。また、オスマン帝国初期のスルタンは、イスラーム神秘主義教団と密接な関係にあり、従って初期オスマン建築のキュッリイェには、必ず神秘主義の修行者(ダルヴィーシュスーフィー)の宿泊施設が用意されていた。
危機の時代以降の建築

ティムール朝に対する敗戦を契機とした国内の一時的な混乱は建築活動にも多大な影響を与えたが、国内の分裂状態は1410年代までには終息し、メフメト1世によって再び建築活動が息を吹き返すことになった。イェシル・ジャーミーのミフラーブ

ブルサのイェシル・ジャーミーは「緑色のモスク」を意味するその名のとおり、見事なタイル装飾を見ることができる。初期オスマン建築の傑作と言われるこのモスク建築複合体は、メフメト1世の命により1412年あるいは1413年から起工され、当時ブルサの知事であったハジュ・イワズによって設計された。建物は1420年頃までには建設されたが、装飾は1424年になって完成している。このモスクの主要な特徴はミフラーブのある礼拝堂室にドームが設けられ、本来中庭となるべき礼拝室の前室にもおなじくドームが架かっていることである。このような空間はルーム・セルジューク朝ではまったく見られない。タイル装飾はそれまでの伝統的な装飾であるが、イェシル・ジャーミーのミフラーブにみられるタイル装飾は、壮麗さの点ではルーム・セルジューク朝で作成されたものを超越しており、施工上ある程度の未熟さは認められるものの、大理石とタイルの均整がとれた調和した比類なき空間を構成している。

オスマン建築の最盛期には、巨大な帝室モスクが建設されるようになるが、その最初となるのはバヤズィト1世がニコポリスの戦いでの勝利を記念して建設したブルサのウル・ジャーミーである。これはルーム・セルジューク朝から続く伝統的な会衆モスクである。しかし、ムラト2世以後の会衆モスクは非常に巨大なものとなり、その内部空間はバヤズィト1世の伝統的な会衆モスクとは基本的に異質なものとなっていった。

ムラト2世が1438年に建設を命じたエディルネのユチュ・シェレフェリ・ジャーミーは、礼拝空間を巨大な単一ドームで覆った最初のモスクである。礼拝堂は、アーチが形作る六角形の上にドームを載せた構造で、当時としては大変巨大なものであった。それまでの巨大礼拝堂は連続したアーチ構造によって形成されていたので、空間内にはいくつかの柱が立ち上がっていたが、ユチュ・シェレフリ・ジャーミーでは柱のない広大な空間への探求が見られる。このモスクの名前の由来(ユチュ・シェレフェリとは「3つのバルコニーをもつ」という意味)となっているミナーレも巨大で、その後1世紀の間、これを超える高さのものは建設されなかった。
盛期オスマン建築
コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備チニリ・キョシュク

1453年コンスタンティノポリスを陥落させた征服王メフメト2世は、ほとんど廃墟となったこの都市に首都を移転させた。

1465年までにはイェニ・サライ(現在のトプカプ宮殿博物館)が建設されたが、この宮殿は後に多くの増改築がなされたので、現在は新築当時の姿をほとんど停めてはいない。


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