オスカー=ハインリヒ・ベール
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オスカー=ハインリヒ・ベーア
Oskar-Heinrich Bar
第77戦闘航空団所属時代、1942年7月イタリア・コーミゾ基地にて
渾名"プリッツル"("Pritzl")
または"レーステ"("Reeste")
生誕1913年5月25日
ザクセン王国ライプツィヒ
ゾマーフェルト(Sommerfeld)
死没1957年4月28日
西ドイツ ニーダーザクセン州
ブラウンシュヴァイク
所属組織

ワイマール共和国 陸軍 (1934 - 1935)
ドイツ国防軍空軍 (1935 - 1945)
軍歴1934年 - 1945年

第51戦闘航空団
第77戦闘航空団
南部戦闘飛行隊
第2予備戦闘航空団
第44戦闘団
最終階級中佐
除隊後民間パイロット
航空コンサルタント
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オスカー=ハインリヒ(ハインツ)・"プリッツル"・ベーア(Oskar-Heinrich (Heinz) "Pritzl" Bar、1913年5月25日 - 1957年4月28日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍トップ・エースである。エース・パイロットとは空中戦で5機以上の敵機を撃墜した軍隊パイロットを呼び表す呼称である[1]。ベールは、西部戦線東部戦線地中海戦域といったドイツ軍が戦った全ての主要な戦域で1,000回以上の作戦任務に出撃し戦闘を行った。ベーアは18回撃墜されたがこれを生き延び、空中戦で220機の撃墜を記録した[脚注 1][5]

ザクセン訛りの強いベーアは1934年ヴァイマル共和国軍に入隊し、1935年に空軍に転籍した。当初は整備士であり後に輸送機のパイロットとなったが戦闘機パイロットとしての正式な訓練は受けていなかった。ベーアは自身の最初の撃墜記録は1939年9月フランス国境でのことであったと言っていた。バトル・オブ・ブリテンの終結までにベールの撃墜記録は17機にまで増え、バルバロッサ作戦に参加するために東部戦線へ移動すると更なる戦果を駆け足で積み重ねていき、1942年2月には撃墜数90機で柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を授与された。

第二次世界大戦の残りの期間にベールは世界で最初のジェット戦闘機の1機であるメッサーシュミット Me262に搭乗していた時の16機を含めた130機の撃墜数を追加した。これだけの戦果があれば通常は待望の柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章が授与されるはずであった[4][6]。しかし、ヘルマン・ゲーリングのベーアに対する個人的な嫌悪がベールの反抗的な性格や軍規遵守精神の欠如と相まって、ベーアがこの勲章を授与されることを阻んだ[7]。第二次世界大戦後、ベーアはパイロットとしての仕事を続け、1957年4月28日ブラウンシュヴァイク近郊で航空機事故により死去した。
前半生ユンカース Ju 86

ベーアは1913年5月25日ライプツィヒ近郊のゾマーフェルト(Sommerfeld)で生まれた。両親は農民でありベーアは全てがアウトドアに関連した生活と森に惹かれていたため最初はになることを望んでいたが、ユンカース社製の輸送機を初めて見たことで心変わりがして自分はパイロットになるべきだと確信した[8]。10代の頃にベーアはグライダーのパイロットとなり、将来はルフトハンザ航空で働く旅客機のパイロットになる希望を持っていた[9]。ベーアが"プリッツル"("Pritzl")という綽名を貰ったのは彼の好物がプリッツルのキャンディバーであったことによる[10]

世界恐慌により民間パイロット用の操縦免許の取得を阻まれると1934年にベーアはヴァイマル共和国軍に入隊した。整備士として第4自動車化輸送大隊(Kraftfahrabteilung 4)に配属され、翌年にドイツ空軍の実戦部隊に転籍するまでその部隊に居た。数カ月後にベーアはパイロット訓練生となり、1937年に輸送機の操縦免許を取得した。1938年9月1日、後に第51戦闘航空団(JG 51)の基幹となる第135戦闘航空団/第I大隊に転属し、普段はユンカース Ju 86を操縦していた[脚注 2][9]中隊長(Staffelkapitan)のダグラス・ピトケアン(Douglas Pitcairn)はベーアの飛行能力に注目していて、彼に戦闘機パイロットに転向することを納得させようとしていた。当初、ベーアは断っていたがJu 86搭乗中のエンジン故障時に行った規則違反のアクロバット飛行の後でしぶしぶこれを受け入れ、戦闘機パイロットになった[11][12]
第二次世界大戦JG 51のメッサーシュミット Bf 109E(1940年8月)

フランス国境に駐屯していた時の1939年9月25日まやかし戦争中の空中での小競り合いでベーアはフランス空軍(Armee de l'Air)のカーチス P-36 機を初めて撃墜し、1939年9月27日二級鉄十字章を授与された[13]。バトル・オブ・ブリテンで10機を撃墜する前のフランス侵攻の期間中に更に2機の撃墜を記録した。この期間中にベールは機体を酷く損傷する緊急着陸を数回経験し、1940年9月2日には英仏海峡上空でスピットファイアにより撃墜された。後日、ゲーリングはベーアにこの空戦のことを尋ねた[脚注 3]。ベールはゲーリングに呼び出され、海上に漂っている間に何を考えていたかと尋ねられた。ベーアはゲーリングが戦闘機パイロットの前で行う演説を聞かずに済むように直ちにこう答えた。「国家元帥閣下のお言葉によりますと英国はもう島ではありません!」(ママ)[14]。このような出来事はベーアがしばしば見せる高官を軽視する厚かましさの証拠であり、若いエース・パイロットが陥って揉め事を起こしがちな事例の特徴であった[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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