Oscar Micheaux
生誕Oscar Devereaux Micheaux
(1884-01-02) 1884年1月2日
アメリカ合衆国イリノイ州
死没1951年3月25日(1951-03-25)(67歳)
アメリカ合衆国ノース・カロライナ州
職業映画監督・作家
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オスカー・ミショー (Oscar Micheaux 1884年10月2日?1951年3月25日) は主にサイレント期に活躍したアメリカの映画監督・プロデューサー。まだ人種差別が強く残る時代のアメリカで黒人の監督として生涯に44本の作品を製作。小説家としても活躍した。 ミショーは1884年、イリノイ州メトロポリスで生まれた。両親は奴隷出身で、13人の兄弟がいた[1]。幼少期をカンザスで過ごすが、17歳のときに家を離れ、シカゴで鉄道の車掌として働き始めた[2]。蓄えを得たのち西部へおもむき、自力で開拓した農地の所有権を得られるホームステッド法を活用して成功、1905年にはサウスダコタ州で160エーカーの農場を構えるようになった[3]。1913年には自らの経験をもとに『克服:黒人パイオニアの物語』と題する小説を発表している[4]。 1915年、不況による経営難で農場を失う[5]。ミショーはアイオワ州へ移り、出版社に勤めながら自らの小説を戸別販売し生計を立てる。同時にすぐれた経営手腕でも頭角をあらわし、勤務先の出版社の経営に加わるようになった[6]。 ある日、ミショーは黒人の資本家から、1917年に発表した小説『ホームステッダー The Homesteader 翌1920年には、秘密結社クー・クラックス・クランの人種差別思想を美化しているとして当時物議を醸していたD・W・グリフィスの『國民の創生』 を正面から批判する『我らが門の内にて Within Our Gates
生涯
青年期まで
映画製作の開始
「人種映画」が一定の成功をおさめたため、1940年頃までにはハリウッドの大手スタジオも黒人キャストによる映画を製作するようになる[5]。ミショーのスタジオを含む小資本の黒人プロダクションはしだいに淘汰されてゆき、ミショーは晩年、映画製作から退いて小説の執筆に専念した[4]。
ミショーは生涯に44本の映画を製作、7つの小説を書いた[8]。このうち『ウィンゲート夫人の事件 The Case of Mrs. Wingate』(1943) は出版部数5万5000部を超え、当時としては異例のベストセラーとなっている[5]。
1951年、心臓発作のため67歳で死去。没後、黒人の映画製作者としての先駆的な役割はしだいに高く評価されるようになり、1987年にはハリウッドの「ウォーク・オブ・フェイム」に加えられている[9]。
主なフィルモグラフィ
The Betrayal (1948)
The Notorious Elinor Lee