オジー・スミス
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オジー・スミス
Ozzie Smith
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地アラバマ州モービル
生年月日 (1954-12-26) 1954年12月26日(66歳)
身長
体重5' 11" =約180.3 cm
150 lb =約68 kg
選手情報
投球・打席右投両打
ポジション遊撃手
プロ入り1977年
初出場1978年4月7日
最終出場1996年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


サンディエゴ・パドレス (1978 - 1981)

セントルイス・カージナルス (1982 - 1996)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2002年
得票率91.74%
選出方法BBWAA選出
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オスボーン・アール・スミス(Osborne Earl Smith、1954年12月26日 - )は、元メジャーリーガー内野手)。

現役時代、サンディエゴ・パドレスセントルイス・カージナルスで活躍し、遊撃手としての広い守備範囲と華麗な守備で知られ、"The Wizard of Oz"(オズの魔法使い[1])の異名を持つ。1980年から13年連続でゴールドグラブ賞を受賞。補殺数8375はメジャーリーグ記録、併殺数1590も2007年オマー・ビスケルに更新されるまで最多記録であった。目次

1 来歴・人物

2 詳細情報

2.1 年度別打撃成績

2.2 年度別守備成績

2.3 表彰


3 関連項目

4 脚注

5 外部リンク

来歴・人物

ロック高校時代はエディ・マレーとチームメイトだった。また、2人と同時期に、NFLニューヨーク・ジェッツのディフェンス・コーディネーター、ドニー・ヘンダーソンも同高校へ通っていた。

1978年にサンディエゴ・パドレスでメジャーリーガーとしてデビューを果たし、その守備でレギュラーを獲得したが、打撃はいまひとつで、1978年は.258、1979年は.211というありさまであった。

しかし、非力さを補うように守備では力を見せ、1980年遊撃手として621補殺というMLB記録を樹立し、自身初のゴールドグラブ賞を受賞する。この年は57盗塁も記録し、守備と走塁で大きくアピールもしたが、打率は相変わらず.230の非力さであった。

転機となったのは1982年、セントルイス・カージナルスに移籍したことであった。当時カージナルスを率いていたホワイティ・ハーゾグ監督が、スミスの守備力に目をつけ、当時本拠地にしていたブッシュ・メモリアル・スタジアムではプラスになるとの判断あってのものだった。ハーゾグ監督との出会いにより、移籍1年目にして内野守備の中心となり、同年、ワールドシリーズ第2戦(対ミルウォーキー・ブルワーズ)では、二塁走者として、トム・ハーの犠牲フライで三塁走者に続いて二塁からホームイン。ハーはワールドシリーズ史上唯一(2008年終了時点)の「二点犠飛」を記録した。カージナルスを15年ぶり9回目のワールドチャンピオンに導く原動力となった。

守備に磨きをかける一方、打撃にも力を入れるようになり、打率も2割台から徐々に上がっていった。1985年のロサンゼルス・ドジャースとのリーグチャンピオンシップシリーズ第5戦では、スイッチヒッターのスミスが左打席では唯一となるホームランを放ち、チームをサヨナラ勝利に導いた。そして1987年には自身最高の打率となる.303を記録し、「守備だけの選手」という評価を完全に覆した。同年、肩の故障で守備力が低下すると懸念されたが、猛練習の末にクイックスローを会得して、それをカバーした。

ショート守備についてはもはや「神業」と謳われる境地に達しており、ショート最深部(というより、ほぼレフト前)のゴロをノーバウンドのままジャンピングスローでアウトにしたり、ダイビングしながらイレギュラーバウンドを素手で処理したり、という常識では考えられないものだった。「(一試合の中で)スミスがそのバットで1点をたたき出すことは稀だ。しかし、彼はそのグラブで確実に2点は防いでくれる」と讃えられている。

1991年には151試合の出場で失策はわずか8個と、守備機会の多い遊撃手としては異例の安定感を見せた。また、1992年まで13年連続でのゴールドグラブ賞受賞は遊撃手として史上最多記録。2007年にはオールタイム・ゴールドグラブチーム(守備において歴代最高の選手)に選出されている。 スミスのカージナルス在籍時の背番号「1」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番に1996年指定。

1996年を最後に現役を引退。通算安打は2460安打、通算580盗塁を記録し、三振も非常に少ない優れたリードオフマンであったと言える。カージナルスでの背番号1は、引退と共に永久欠番に指定されている。

2002年、資格1年目に野球殿堂入り。

2005年、息子のニコ・スミス(Nikko Smith)がオーディション番組『アメリカン・アイドル』シーズン4でファイナルまで進出し話題となった(結果は9位)。カージナルスが出場した2006年のワールドシリーズで第4戦の試合前に国歌斉唱を行っている。
詳細情報
年度別打撃成績

















































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