オゴデイ・ハン国
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オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)

オゴデイ・ウルス(Ogodei ulus)とは、チンギス・カンの第3子で、モンゴル帝国第2代皇帝となったオゴデイを始祖とする王家によって支配されたウルスである。13世紀初頭に成立し、15世紀初頭までは残存していたとされる。

かつては類似した概念として「オゴデイ・ハン国(Ogodei Khanate)」という呼称も用いられていたが、研究の進展により現在ではほとんど用いられることがない。「オゴデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はともに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。目次

1 概要

2 オゴデイ・ウルスの構造

2.1 モンゴル帝国内におけるオゴデイ・ウルスの位置づけ

2.2 「ウルス」の特色


3 歴史

3.1 オゴデイ・ウルスの成立

3.2 オゴデイ・カーンの治世におけるオゴデイ・ウルス

3.3 オゴデイ家とトゥルイ家の内紛

3.4 モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割

3.5 カイドゥ・ウルスの成立

3.6 カイドゥ・ウルスの解体

3.7 14世紀以後のオゴデイ・ウルス


4 オゴデイ・ウルスの構成

4.1 初期の4千人隊

4.2 モンケ・カーンによるオゴデイ・ウルス分割時(1252年)のオゴデイ系7王家

4.3 「カイドゥの乱」終結後、14世紀における大元ウルス統治下のオゴデイ系6王家


5 各王家

5.1 グユク王家

5.2 コデン王家

5.3 クチュ王家

5.4 カラチャル王家

5.5 カシ王家

5.6 カダアン王家

5.7 メリク王家


6 脚注

7 参考文献

概要

かつてのモンゴル史研究では中央アジアエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に、13世紀前半から1306年まで「オゴデイ・ハン国」という政権が一貫して存続していたと想定されていた。この「オゴデイ・ハン国」という概念は当時の史料に見える「オゴデイのウルス」という用語を念頭に置いたものであるが、そもそもウルスと近現代的な「国家」では異なる点が多く、単純にウルス=ハン国とすべきではないという批判が近年のモンゴル史研究者から唱えられている[1]

また、特にオゴデイ家のカイドゥが治めた政権を指して「オゴデイ・ハン国」と呼称することもあるが、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたものであることが近年の研究によって明らかにされている。また、フレグ・ウルスで編纂された『集史』でカイドゥの治める領域がペルシア語で「カイドゥの国(mamlakat-i q??d?'?)」と呼称されていることや、カイドゥの君主としての称号もハンではなく「兄」を意味する「アカ(aqa)」と呼ばれていたことなどを踏まえ、近年の研究ではカイドゥの治める政権を「オゴデイ・ハン国」ではなく「カイドゥの国」あるいは「カイドゥ・ウルス」と呼称するのが一般的である[2]
オゴデイ・ウルスの構造 14世紀以後のモンゴル帝国における、ウルスの分立
モンゴル帝国内におけるオゴデイ・ウルスの位置づけ

1206年にチンギス・カンによって創設された「大モンゴル国/イェケ・モンゴル・ウルス(Yeke mongγol ulus)」は、チンギス・カンの一族によって支配される「一族ウルス」やチンギス・カンによって再編成された千人隊といった複数の遊牧集団が大カーンの統令の下結集する巨大な政治的連合体であった。チンギス・カンが自らの諸子・諸弟に領民・領地を分け与えて成立させた一族ウルスはイェケ・モンゴル・ウルスの縮小版とも言うべき存在であり、それ自体が複数の下位ウルスを有する遊牧集団の連合体であった[3]。そしてオゴデイ・ウルスもまた、このようなチンギス・カンの一族が治めるウルスの一つであった。

この「一族ウルス」は強固な内的結束を有する訳ではなく、あくまで「一人の当主を共通の盟主とする同族政事グループ」とでも言うべき存在であった[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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