オゴデイ・ハン国
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オゴデイ・ウルスの始祖オゴデイと息子達(『集史』「オゴデイ・カアン紀」パリ写本)

オゴデイ・ウルス(Ogodei ulus)とは、チンギス・カンの三男で、モンゴル帝国第2代皇帝となったオゴデイを始祖とする王家によって支配されたウルスである。13世紀初頭に成立し、15世紀初頭までは残存していたとされる。

かつては類似した概念として「オゴデイ・ハン国(Ogodei Khanate)」という呼称も用いられていたが、研究の進展により現在ではほとんど用いられることがない。「オゴデイ・ウルス」及び「オゴデイ・ハン国」という呼称はともに創始者オゴデイの名から取られているが、当時の史料にある用語ではなく、歴史家による通称である。

かつてのモンゴル史研究では中央アジアエミル川流域を中心とする地域(現在の中国新疆ウイグル自治区北部ジュンガリア地方)に、13世紀前半から1306年まで「オゴデイ・ハン国」という政権が一貫して存続していたと想定されていた。この「オゴデイ・ハン国」という概念は当時の史料に見える「オゴデイのウルス」という用語を念頭に置いたものであるが、そもそもウルスと近現代的な「国家」では異なる点が多く、単純にウルス=ハン国とすべきではないという批判が近年のモンゴル史研究者から唱えられている[1]

また、特にオゴデイ家のカイドゥが治めた政権を指して「オゴデイ・ハン国」と呼称することもあるが、カイドゥの率いたウルスは事実上彼が一代で築き上げ、旧来のオゴデイ・ウルスに留まらない国家へと発展させたものであることが近年の研究によって明らかにされている。また、フレグ・ウルスで編纂された『集史』でカイドゥの治める領域がペルシア語で「カイドゥの国(mamlakat-i q??d?'?)」と呼称されていることや、カイドゥの君主としての称号もハンではなく「兄」を意味する「アカ(aqa)」と呼ばれていたことなどを踏まえ、近年の研究ではカイドゥの治める政権を「オゴデイ・ハン国」ではなく「カイドゥの国」あるいは「カイドゥ・ウルス」と呼称するのが一般的である[2]
構造14世紀以後のモンゴル帝国における、ウルスの分立
モンゴル帝国内における位置づけ

1206年にチンギス・カンによって創設された「大モンゴル国/イェケ・モンゴル・ウルス(Yeke mongγol ulus)」は、チンギス・カンの一族によって支配される「一族ウルス」やチンギス・カンによって再編成された千人隊といった複数の遊牧集団がカアンの統令の下結集する巨大な政治的連合体であった。チンギス・カンが自らの諸子・諸弟に領民・領地を分け与えて成立させた一族ウルスはイェケ・モンゴル・ウルスの縮小版とも言うべき存在であり、それ自体が複数の下位ウルスを有する遊牧集団の連合体であった[3]。そしてオゴデイ・ウルスもまた、このようなチンギス・カンの一族が治めるウルスの一つであった。

この「一族ウルス」は強固な内的結束を有する訳ではなく、あくまで「一人の当主を共通の盟主とする同族政事グループ」とでも言うべき存在であった[4]。それ故、モンゴル帝国内の政争・内乱に際してあるウルスの中でそれぞれ違う派閥に与する集団が複数存在することも屡々あった。後述するようにオゴデイ・ウルスはとりわけその傾向が強く、グユク死後の政争ではシレムンを推すグユク・ウルスとモンケ派についたコデン・ウルスが対立する、といった事例が見られた。このようなオゴデイ・ウルス内部の対立は「カイドゥ・ウルス」の解体まで存続してゆく[5]
「ウルス」の特色詳細は「ウルス」を参照

ウルスは一般的に「国家」と訳されるものの本来の意味は「人々の集団」であり、「オゴデイ・ウルス」も本義としては「オゴデイの国」ではなく「[チンギス・カンによって分け与えられた]オゴデイの有する遊牧民集団」を意味する[1]

ウルスが一般的な国家観と決定的に異なる点は、「領地」ではなく「領民」をその根幹とすることである。チンギス・カンから諸子・諸弟へ分与されたのはあくまで「人々(モンゴル語:irgen/ペルシア語:nafar)」であって、「領地」や「国家」ではなかった[6]。遊牧民にとって「ウルス」とは「人々の集まり(人民)」を第一義とするものであり、「領地」はそれに次ぐものであった[7]

このような「ウルス」の特徴はモンゴリア以外の領土を分割する際にも影響を与えた。華北の金朝・江南の南宋を滅ぼした後、モンゴル帝国は征服地を「投下領」領として諸王・功臣に分割していたことが知られているが、この「投下」領の分割は各ウルスの有する遊牧民の人口を基準に決定されていた[8]。諸王は自らの有する遊牧民の約10倍の人口を有する地方を、功臣は約5倍の人口を有する地方をそれぞれ「投下」として与えられているが[9]、これはまず与えられる「領民」が決定され、然る後に与えられる「領土」も決定された証左である。このような基準に従って、チンギス・カンの時代に4つの千人隊を有するオゴデイ・ウルスには45945戸を有する西京路が与えられ、オゴデイ・カアンの時代に4つの千人隊を有するコデン・ウルスには47741戸を有する東昌路が与えられている[10]

また、モンゴル社会では逆に領地を失っても領民を失っていなければ「ウルス」は存続していると見なされていた。14世紀初頭に「カイドゥの国」が解体すると中央アジアの領地を失ったオゴデイ家の諸王は大元ウルス領内に移住したが、大元ウルスからは独自の「所部(=ウルス)」を有する諸王として把握されていた[11]
歴史
成立チンギス・カンの征服活動

オゴデイ・ウルスが成立したのは1207年から1211年にかけてのことで、モンゴル帝国が成立してから間もなくのことであった[12]。チンギス・カンは自らの諸子(ジョチチャガタイ・オゴデイ)に1万2千の兵とモンゴリア西方の領地を、諸弟(カサルカチウンオッチギン)に同じく1万2千の兵とモンゴリア東方の領地を与え、それぞれ帝国の右翼・左翼と位置づけた[13]

オゴデイにはイルゲイ・ノヤンジャライル千人隊デゲイ・ノヤンベスト千人隊イレク・トエスルドス千人隊ダイルコンゴタン千人隊からなる4つの千人隊が分封され、これがオゴデイ・ウルスの原型となった。オゴデイ・ウルスの最初の封土は北方をジョチ・ウルス、南方をチャガタイ・ウルスに囲まれたアルタイ山脈中部からウルングゥ川一帯にあった[14]

『長春真人西遊記』には「[長春真人一行は]中秋の日にアルタイ(金山)東北に至り、しばらく駐留した後再び南行した。その山は高大・深谷で長い坂道があり、かつては車で行くことが出来なかった。三太子(オゴデイ)が軍を出し、始めてこの道を開拓したのである(中秋日、抵金山東北、少駐復南行。其山高大、深谷長阪、車不可行。三太子出軍、始闢其路)」との記述があり、チンギス・カンはアルタイ山を越え西方につながる交易路の開拓・管理を任せる意図の下オゴデイにこの領地が与えたと考えられている[15]

1219年、中央アジア遠征が始まるとチンギス・カン率いる本隊はオゴデイが開拓したルートを辿って西方に進軍し、オゴデイもこの遠征でアルタイ山脈の西麓、イルティシュ川の上流を得た長兄のジョチと、天山山脈イリ川渓谷を得た次兄のチャガタイの両ウルスの中間、エミル川流域のジュンガリア盆地一帯を新たに領土に加えた。これ以後、『世界征服者史』が「後継者オゴデイの王庭は、父の在世の間はエミル及びコボクにある彼のユルト(幕営地)であった…」と述べるように、オゴデイ・ウルスの本拠地は夏営地をエミル、冬営地をコボクとする一帯に置かれるようになる[16]

また、エミル・コボク地方の他にもオゴデイは金朝遠征の戦功として山西の大同(当時は西京路と呼称)一帯を、西夏遠征の戦功として涼州一帯を新たに領土として与えられている[17]。これらの領土は14世紀末に至る迄クチュ家やコデン家などオゴデイ・ウルスの遊牧地として存続することとなる。
オゴデイ・カアンの治世

チンギス・カンの死後、遺言によってオゴデイがカアンに即位すると、問題になったのが末弟のトルイの存在であった。オゴデイが僅かに4千人隊しか継承していなかったのに対しトルイは父直属の101の千人隊を継承しており、有する領地・兵数はオゴデイよりはるかに上であった[18]

そこでオゴデイはオゴデイ・ウルス及びトルイ・ウルスに多数の変更を加え、自らの立場を強化した。まず、オゴデイは自らの直轄する4千人隊を庶長子のグユクに委ね(グユク・ウルスの成立)[19]、トルイ・ウルスの中から自らに直属する1万のケシク(親衛隊)を組織した。


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