オクラホマ!
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Oklahoma!
オクラホマ!
作曲
リチャード・ロジャース
作詞オスカー・ハマースタイン2世
脚本オスカー・ハマースタイン2世
原作リン・リグス
ライラックは緑に育つ
Green Grow the Lilacs
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1943年 ブロードウェイ

1947年 ウェスト・エンド

1951年 ブロードウェイ再演

1955年 映画

1979年 ブロードウェイ再演

1980年 ウェスト・エンド再演

1998年 ウェスト・エンド再演

2002年 ブロードウェイ再演

2003年 全米ツアー

2010年 全英ツアー

2015年 全英ツアー

2019年 ブロードウェイ再演

2021年 全米ツアー

受賞

1944年 ピューリッツァー賞特別賞

1993年 トニー賞特別賞(50周年記念)

1999年 ローレンス・オリヴィエ賞再演ミュージカル賞

2019年 トニー賞再演ミュージカル賞

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『オクラホマ!』(Oklahoma!)は、ロジャース&ハマースタインの作詞作曲家コンビによる第1作目のミュージカル。リン・リッグズの1931年の戯曲「ライラックは緑に育つ」を基にしている。1906年のアメリカ中西部・オクラホマ州クレアモア郊外のインディアン準州の農村を舞台に、農家の娘ローリー・ウィリアムズに対するカウボーイのカーリー・マクレーンと、陰鬱な農場労働者のジャッド・フライという2人の求婚者による恋の三角関係を明るく陽気に描いたものである。同時にカウボーイのウィル・パーカーと、浮気性の婚約者エイドエニーの不安定な恋愛模様も描かれている。

1943年3月31日初演のブロードウェイミュージカルである。初演時には前例のない2,212回というロングラン記録を打ち立てて大ヒット作となり、再演も数々受賞し、全米ツアー、海外プロダクションの他、1955年20世紀フォックスによって映画『オクラホマ!』が制作されアカデミー賞を受賞した。学校演劇や市民劇団などでも人気の作品となっている[1]1967年1984年2006年宝塚歌劇団が上演した。

1944年、作詞作曲脚本のロジャース&ハマースタインピューリッツァー賞特別賞を受賞した。

1927年の『ショウボート』を基に、単なる娯楽でなく感情に訴えることができるシリアスでドラマチックなエンディングの脚本に楽曲およびダンスが融合した「ブック・ミュージカル」の発展の象徴的作品となっている[2]。さらに音楽と物語を繋ぐために作品を通して繰り返される主題モチーフを特徴としている[3][4]。15分におよぶ「ドリーム・バレエ」はローリーがカーリーとジャッドの2人の男性への感情で苦悩する様子を描いている。「美しい朝」「ノーとは言えない」「恋仲と人は言う」、そして終幕の「オクラホマ!」の大合唱などが鏤められた作品である。

同名のタイトルナンバーは後にオクラホマ州の州歌に採用された。
背景

1940年代初頭には作曲家リチャード・ロジャース作詞家オスカー・ハマースタイン2世はどちらもそれぞれ他の共同制作者と共にブロードウェイで有名であった。1920年代以降、ロジャースはロレンツ・ハートと共に『青春一座(英語版)』(1937年)、『The Boys from Syracuse』(1938年)、『Pal Joey』(1940年)など20作以上を制作していた[5]。ハマースタインは『Rose-Marie』(1924年)、『The Desert Song』(1926年)、『The New Moon』(1927年)、『ショウボート』(1927年)などの脚本および作詞を行なっていた。1930年代には作品数は減ったが、ミュージカル、楽曲、映画の制作を続けており、1940年にジェローム・カーンが作曲、ハマースタインが作詞した「思い出のパリ(英語版)」が1941年に映画『レディ・ビー・グッド』に採用されアカデミー歌曲賞を受賞した[6]。1940年代初頭までにハートはアルコール依存症と情緒不安定が酷くなって仕事ができなくなり、ロジャースはハマースタインに共同制作を打診した[7]
構想

1931年、シアター・ギルドはオクラホマ州インディアン準州の開拓者たちについて描かれたリン・リグスの『ライラックは緑に育つ (戯曲)(英語版)』の舞台を制作した。舞台は成功しなかったが、10年後の1941年、ギルドのプロデューサーの1人であるテレサ・ヘルバーンが伝統的童謡やスクウェアダンスを使用した夏季公演を観劇し、『ライラックは緑に育つ』のミュージカル版が不況のギルドの復活に役立つと思い立った。ヘルバーンは1925年に『The Garrick Gaieties』ギルド公演で初めて成功をおさめたロジャース&ハートに連絡した。ロジャースは乗り気でハートと共同の権利を獲得した。ロジャースはオスカー・ハマースタイン2世に参加を依頼した。1941年、ロジャース&ハートの『By Jupiter』試験興行中、ハマースタインはもしハートがもう仕事ができないのであれば自分が引き受けると語った[8]。1942年、ハマースタインも『ライラックは緑に育つ』のミュージカル版を検討していたが、ジェローム・カーンに提案した所断られていた。ロジャースが『ライラックは緑に育つ』のミュージカル版の脚本家を探していると知り、熱望したのである。ハートは自身のウィットに富んだ歌詞を活かせる現代的で洗練された作品を好み、田舎を舞台にした農民とカウボーイが登場する同作への興味を失っていた。さらにハートのアルコール依存症は悪化しており、もう作詞ができる状態ではなかった。ハートはメキシコで休暇中、ロジャースにハマースタインは良いパートナーになるだろうと語った[9][10]

ハマースタインは作曲前に歌詞を完成させることを好み、ロジャースは完成された歌詞に作曲することを好み、双方が好む作詞作曲法が合致していた。以前の共同制作者のロジャース&ハートにおいては、考えをまとめにくいハートが作詞の土台を必要としていたため、いつもロジャースが先に作曲していた。ハマースタインの元共同制作者にはルドルフ・フリムル、ハーバート・ストットハート、ヴィンセント・ユーマンスそしてジェローム・カーンがいたが、全て作曲が先でハマースタインが後から作詞をしていた。双方とも以前の共同制作者との方法とは逆のやり方となることにより、ハマースタインは歌詞で物語の基礎を固め、ロジャースは作曲によりその物語を増幅および強化させることができた[8]。ロジャース&ハマースタインがこの新作ミュージカルに取り掛かる際、これまでのミュージカル・コメディの慣例にとらわれず、独自の音楽性および物語性が原作『ライラックは緑に育つ』に沿うものになると意見が一致した[9]。当時のミュージカル作品は大規模なプロダクション、目新しさ、盛大なダンスを特徴とし、脚本はユーモアが重要でドラマチックな展開は少なく、曲は物語の流れを分断していたのである[11]
キャスティングおよび展開

世界大戦の間、ミュージカルの配役は歌が得意な役者に与えられていたが、ロジャース&ハマースタインは演技の得意な歌手を選んだ。シアター・ギルドの演出家の1人であるテレサ・ヘルバーンはローリー役にシャーリー・テンプル、アリハカム役にグルーチョ・マルクスを提案したが、ロジャース&ハマースタインは演出家のルーベン・マムーリアンの賛同もあり、より物語にふさわしい配役を希望した[8]。ブロードウェイ初作品となるアグネス・デ=ミルが振付を担当し、ローリーのジャッドとカーリーという2人の求婚者の間での苦悩を表現した、本作の最も特筆すべき不朽の第1幕フィナーレの15分におよぶドリーム・バレエを制作した[11]

1943年3月11日、コネチカット州ニューヘイブンにあるシュバート劇場での試験興行時、題名は『Away We Go!』であった[12]。ハマースタインは6作品失敗が続いており期待値が低く、スター俳優も出演していなかった。プロデューサーのマイク・トッドは試験興行の第1幕途中で退席し、「若い娘もジョークも見込みもない」と語った[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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