オクシリンコス
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オクシリンコス
Oxyrhynchus
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯28度32分10秒 東経30度39分20秒 / 北緯28.53611度 東経30.65556度 / 28.53611; 30.65556
行政
 エジプト
 ミニヤー県
 市オクシリンコス
その他
等時帯東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
エジプトにおけるオクシリンコスの位置

オクシリンコス(Oxyrhynchus、ギリシア語: ?ξ?ρρυγχο?、古代エジプト語: Pr-Medjed、コプト語: Pemdje、アラビア語: el-Bahnasa)は、カイロから南南西に160kmのあたりにある上エジプトの都市で、ミニヤー県に属する。遺跡の名前でもあり、エジプトで最も重要な遺跡の1つと言われている。20世紀にはオクシリンコスで継続的な発掘調査が行われ、プトレマイオス朝からローマ属州時代のパピルスが大量に見つかっている。オクシリンコスで見つかった文書の中には、メナンドロスの戯曲、「トマスによる福音書」の断片、初期のキリスト教徒に関する文書などがある。
地名の由来

この町の名はナイル川に生息する魚類の一種に因んだもので、オシリス陰茎を食べたということでエジプト神話にも登場する魚である。ただし、その魚が具体的にどの種なのかはわかっていない。可能性として指摘されているのはモルミルス科(英語版)の魚で、中程度の大きさの淡水魚でありエジプトの美術品にもよく描かれている。モルミルス科の一部の種は鼻のような下に垂れ下がった口を特徴とし、エレファントノーズフィッシュと呼ばれている。オクシリンコスで見つかった神聖な魚の像は、エレファントノーズフィッシュの特徴を示しているといわれている[1]
歴史

オクシリンコスはナイル川本流から西に位置し、ファイユームオアシスへと続くナイル川の支流 Bahr Yussef のほとりにある。古代エジプト時代には Per-Medjed (ペル=メジェド)という都市があった[2]。紀元前332年にアレクサンドロス3世エジプトを征服すると、この都市はギリシャ風に作りかえられ、オクシリンコス・ポリス(Οξυρρ?γχου Π?λι?、「細長い鼻の魚の町」)と呼ばれるようになった。

ヘレニズム期には宗教的中心地として栄え、エジプト第3の大都市となった。キリスト教が広まると、教会堂僧院が多数建設された[2]ローマ帝国期から東ローマ帝国の時代にかけて、都市としては徐々に衰退していった。641年アラブ人がエジプトに侵入すると、都市の基盤だった水路が破壊され、オクシリンコスは放棄された。現在その地にある町エル=バハナサ( el-Bahnasa )は遺跡の上にある。

1000年以上もの歴史の中で、オクシリンコスの住民は西に広がる砂漠地帯にごみを捨て続けた。オクシリンコスがナイル河畔ではなく支流に沿って建設されたという事実は重要である。そのため、この地は毎年洪水に見舞われるということがなかった。水路が干上がったとき、地下水面も下がり、二度と再び上がって来なかった。ナイル川西方にはほとんど雨が降らないため、オクシリンコスの住民が捨てたごみは徐々に砂に覆われていき、約1000年間忘れられていた。

ギリシアやローマは官僚機構でエジプトを管理し、オクシリンコスはこの地方の行政の中心地だったため、オクシリンコスのごみには大量の紙が含まれていた。計算書、納税申告書、人口調査書類、送り状、受領書、行政・軍事・宗教・経済などの書類、政治的文書、証明書、免許状などの書類を、政府が定期的にオフィスから一掃し、砂漠に捨てた。民間人も不要になった紙を捨てた。パピルスは高価だったため、よく再利用された。そのため、一面には農場運営の計算が書かれ、裏側にはホメーロスの詩を学生が書き写してあるということがよくある。したがって「オクシリンコス・パピルス」は、当時の生活の完全な記録であり、その町が属していた文明帝国の一端を垣間見せてくれる。

オクシリンコスの市街地自体は現代のエル=バハナサの市街地の下にあるため、発掘調査されたことはない。公共建築が多数存在したと見られ、11,000人を収容できる劇場、競馬場、4つの公衆浴場ギュムナシオン、2つの港などがあることがパピルスから判明している。ローマ帝国時代と東ローマ帝国時代にオクシリンコスに軍隊が駐留したことが何度かあるため、兵舎などの軍事施設もあると見られている。ギリシャおよびローマ時代には、セラピスゼウス-アメンヘーラー-イシスオシリスなどの神殿があった。さらには、デーメーテールディオニューソスヘルメースアポローンのギリシャ神殿もあり、ユーピテルマールスローマ神殿もあった。キリスト教時代になると教区の司教座が置かれた。

フリンダース・ペトリーは1922年にオクシリンコスを訪れ、コロネードと劇場の痕跡を見つけている。現存するのは1本の柱の断片だけであり、他は建材として再利用されてしまった[3]
発掘

1882年、エジプトは名目上まだオスマン帝国の一部だったが、事実上イギリスが支配するようになり、イギリスの考古学者らがエジプト全体の体系的な調査を開始した。当時オクシリンコスの重要性はわかっていなかったため、調査がそこに及んだのは1896年のことである。2人の若い発掘者バーナード・グレンフェル (en) とアーサー・ハント (en) はオックスフォード大学クイーンズ・カレッジのフェローであり、この地で発掘調査を開始した。グレンフェルは「私の第一印象はあまり期待できないというものだった。ゴミ捨て場はゴミ捨て場でしかないと思っていた」と記している[要出典]。しかし、間もなく2人は大きな発見をしたことに気づいた。気候と状況の独特な組合せにより、オクシリンコスは古代世界に比類なき古文書の山となっていた。「パピルスはどんどん見つかっていった。ブーツで土を少し掘ってみるだけで層をなした紙が出てきた」とグレンフェルは記している[要出典]。

古典教育を受けていた2人は、主に古典ギリシャ文学の失われた傑作が見つかる可能性に興味を持っていた。彼らはアリストテレスの『アテナイ人の国制』が1890年にエジプトのパピルスの形で見つかったことを知っていた。2人とその後を引き継いだ考古学者らは、そういった希望を抱きつつ約1世紀に渡って発掘を続け、その努力は報われた。これまでに見つかった文学的なものが書かれたパピルスのうち70%はオクシリンコスで見つかったもので、その一部は古くから知られている作品だが(中世までの写本時代を経由して伝えられたものより、原本に近い)、一部は著名な古代の作者の知られていなかった作品である。

しかし、オクシリンコスで出土したパピルスの中で、文学的な内容のものは10%にしか過ぎない。残りは公文書や私文書であり、法律、布告、登記簿、公式書簡、人口調査報告、課税査定書類、請願書、裁判記録、販売記録、賃貸契約書、遺書、計算書、在庫目録、ホロスコープ、私的な手紙などである。それでもグレンフェルとハントは一般の興味をひきつけ希望を抱かせるのに十分な発見もしていた。発掘を始めたその年、彼らはソポクレスの散逸していたいくつかの戯曲の一部を発見した。また、キリスト教の知られていなかった福音書も見つけている。それらの発見は一般大衆の想像力をとらえた。2人は記事や写真のイギリスの新聞に送り、発掘の重要性を訴え、その継続のための寄付を募った。

第一次世界大戦中を除き、グレンフェルとハントはオクシリンコスの調査に生涯を捧げた。1896年から1906年の10年間、気候的に過ごしやすい冬ごとにグレンフェルとハントは数百人のエジプト人労働者を監督して現地で発掘作業を行った。出土したパピルスはある程度きれいにした後、2人の研究拠点であるオックスフォードに送られた。


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