オオタ自動車工業
[Wikipedia|▼Menu]
オオタ・OC型フェートン(1936年)

オオタ自動車工業(オオタじどうしゃこうぎょう)は、1957年(昭和32年)に日本内燃機と合併するまで存在していた日本の自動車メーカーである。

同社が製造した「オオタ」ブランドの小型車は、第二次世界大戦前の1930年代中期、日産自動車が製造したダットサンと並び、日本製小型乗用車の代表的存在だった。
歴史
創業以前

茨城県新治郡志筑村(現在のかすみがうら市志筑地区)出身の技術者である、太田祐雄1886年(明治19年) - 1956年(昭和31年))によって創業された。

小学校卒業後、近隣の石岡の酒造家に奉公に出された祐雄は、生来の機械好きと器用さから、蔵の主人に見込まれて酒造工場の機械化に手腕を発揮していた。長じて21歳で上京し、芝浦製作所で工員として本格的な工作技術を身に着けた。

1910年(明治43年)からは、元軍人の男爵伊賀氏広による飛行機開発研究を手伝った。しかし伊賀の飛行機開発は、試作機の横転事故で太田祐雄が負傷するなど失敗続きで、テストを繰り返しても飛行することができず、1912年(明治45年)初頭に伊賀は航空機開発断念に追い込まれた。

これによって否応なく独立せざるを得なくなった祐雄は、伊賀が開発用に所有していた足踏み旋盤を譲受し、これを元手として同年6月、巣鴨郊外に個人経営の「太田工場」を開業する(オオタ自動車ではこの時を創業としていた)。
試作車の完成

太田工場では、教材用の小型発動機、模型飛行機、さらに当時の大手オートバイ販売会社・山田輪盛館向けのオートバイ用ピストンやピストンリングの製造を行なった。

1914年(大正3年)には帝国飛行協会主催の「第一回飛行機発動機製作懸賞競技」(航空機用エンジンの開発懸賞競技)に応じ、鉄道院技師の朝比奈順一が設計した星型9気筒11.7L・100馬力エンジンを実際に製作した。製作には2年を費やし、当初22件あった応募で募集期限内までに完成にこぎつけたものは4件[注釈 1]だけだった。1916年(大正5年)5月には懸賞試験が行われ、太田の開発したエンジンは76馬力という出力を得たものの、ベベルギアが破損して出力が低下し不合格となった。それでもこの時代に小規模工場でありながらこのクラスの大型エンジン製作に取り組んだという点では、特筆に値する試みであった。

祐雄は既にこの頃から、自力での自動車開発を企図していたという。1917年(大正6年)には東京市神田区柳原河岸に工場を移転、自動車や船舶用エンジン修理を本業とする傍らで小型自動車の試作に取り組んだ。

1919年(大正8年)には友人・矢野謙治の設計になる水冷4気筒エンジンを完成、シャーシも製作し、ボディを架装しないままのベアシャーシに座席のみを取り付けて東京-日光間往復を敢行したという。

その後、資金難から最初に完成した1台分のシャーシのみで一時計画は頓挫しかけたが、妻の弟である義弟・野口豊(1893年(明治26年)- 1967年(昭和42年))が熱心な協力を惜しまず、父・野口寅吉から出資を得て、車体の開発も続けられることになった。1922年(大正11年)、試作シャーシに4座カブリオレボディを架装し、最初のオオタ車となる試作車「OS号」(OHV4気筒965cc9馬力・全長2895mm・車両重量570kg)がようやく完成、公式に登録されてナンバープレートも取得した。

OS号を市販のため生産化すべく、野口豊をはじめとする出資者が集まって1923年(大正12年)に「国光自動車」を設立したが、同年9月1日の関東大震災で工場設備が全焼、自動車生産計画は頓挫した。

震災に東京で遭遇した太田祐雄は、被災を免れたOS号に家族を乗せてハンドルを握り、急ぎ茨城の郷里に避難した。そして震災直後の混乱が落ち着くと早々と東京に戻り、交通網の寸断された東京でOS号を運転して個人タクシーを営むことで、当座の糊口とした。

なお、OS号は祐雄の処女作で1台のみの試作車ではあったが、完成度は一定水準に達しており、祐雄自身が常用して、1933年(昭和8年)までの10年余りで約6万マイル(約96,500km)を走破した。
小型車市場への再挑戦

国光自動車の計画が頓挫したことから、祐雄はやむなく個人経営の太田工場を再開業して再起を目指した。引き続き自動車や船舶用エンジンの修理を続け、1930年(昭和5年)に神田岩本町9番地(当時)に工場を移転した。

当時の日本では、内務省自動車取締規則によって小型自動車は一定条件を満たせば無免許運転が許可されたが、1928年時点では排気量350cc以下、幅員も909mm以下というシビアな条件で、実質、2輪のオートバイか、ごく小型のオート三輪しか適用を受けられない制度であった。

ところが1930年に規則改定でこの基準が緩和され、無免許運転許可車の排気量上限は500cc、全長/全幅も2.8m/1.2mまでに拡大された。この規格改正は、主としてオート三輪メーカーとユーザーから、性能向上のための規制緩和要望が強かった事によるものであった。だが同時にこの規格は、辛うじてながら小型四輪自動車が成立しうるサイズでもあった。ここにビジネスチャンスが見出され、ダットサンやオオタを始めとする日本製小型四輪自動車が開発されるようになったのである。

太田祐雄は、以前のOS号同様、まずエンジン開発から着手した。規制緩和に合わせる形で、1930年に水冷直列2気筒サイドバルブ484cc・5馬力(法規制の出力制限による公称)の「N-5」型エンジンを開発する。OS号の4気筒エンジンを元に半分にしたようなものであったが、このエンジンは同年博覧会に出品され、海軍に参考購入されている。翌1931年、N-5エンジンを搭載した四輪小型トラックを試作、再度自動車開発に乗り出した。

もっとも経営は相変わらず苦しく、すぐに市販自動車を市場に提供できる態勢にはなかったため、太田工場ではエンジンの単体販売および開発を優先した。
750ccオオタ車の完成オオタ・N-7型エンジン(1936年)

オート三輪に代表される500cc車の普及で国産小型車の市場が拡大したことから、無免許運転許可対象となる小型自動車の範囲は今後も更に緩和され、性能面で有利な大排気量エンジンが使えることが想定された。

困難な状況の中で、祐雄はやはり水冷直列式サイドバルブ型だがより上級クラスの4気筒エンジン開発を進め、1932年(昭和7年)には748ccのN-7型と897ccのN-9型を完成させている。いずれもN-5に比べて重量増大を僅かで抑えつつ排気量・出力の大きな4気筒エンジンとして成立させており、祐雄の意欲をうかがわせるものであった。

N-7エンジンはほどなく排気量を736ccに縮小した[注釈 2]が、戦後まで「E-8」「E-9」などの排気量拡大・強化モデルを生みながら生産される。これは同時期に開発された戦前型ダットサン「7型」722ccエンジンが、戦後860ccまで拡大された「D-10型」となって1950年代後半まで長く用いられたのと軌を一にする[注釈 3]

4気筒エンジンに2種類の排気量を設定したのは、新たな排気量制限の上限が1932年時点では750ccか900ccか確定していなかったことによるものと見られるが、新規格の上限が750ccとなることは1933年に入るとほぼ確定していた模様である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:40 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef