オウニー・マドゥン
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オウニー・マドゥン

オウニー・"ザ・キラー"・マドゥン(Owney "The Killer" Madden、1891年12月18日 - 1965年4月24日)は、アメリカアイルランド系のギャングスター。ガンファイトの武闘派。禁酒法時代はコットンクラブを経営した。本名オーウェン・ヴィクター・マドゥン(Owen Victor Madden)。イギリスリーズ出身。
ストリートギャング

両親と共に職を求めてウィガン、そしてリバプールへ移り住んだ。1902年、前年に先に行った家族を追って渡米、アイルランド移民が多く住むニューヨークヘルズ・キッチンに定住した[1]。若い頃、兄マーティンと共に地元のストリート・ギャングのひとつゴファー・ギャングに入り、果物行商人を強請った。脅しの武器にベアナックル、ブラックジャック、ピストルを使い、また新聞紙にくるんだ鉛のパイプを多用した[2]。窃盗や武装強盗で50回以上逮捕された。アジトにガサ入れにやって来た警官を殺したが、目撃者が行方不明になり、放免された[2]

1910年、ゴファーズはリーダーのニューバーグ・ギャラガーが収監されて3派閥に再編され、全体のボスはいなかったが、そのタフで強靭なスタイルのおかげですぐリーダーの1人になった[1][2]。マドゥン・ギャングとも、縄張りにしていた場所にちなみ10番街ギャングとも呼ばれ、有能なガンマンを雇い入れた。主な稼ぎは地元の商店からの用心棒代で、強盗や金庫破りもやった。選挙時は、アイルランド系政治組織タマニー・ホールから武力サービスを引き受けた[3]。配下の幹部にエディー・イーガン、ビル・タマニー、チック・ハイランドなどがいた[2]。アジトのウィノナ・クラブ[注釈 1]では高額の賭け金で賭場を開いた[4]。警官を襲っては奪った制服を着て街を闊歩し、女友達に見せびらかした。1911年に結婚して娘が生まれたが、翌年に家族を捨てた[5]

1910年代、ライバルギャングのハドソン・ダスターズと派手な抗争に明け暮れた[6]。1911年9月、ダスターズのメンバーを殺害し、逮捕されたが証言者が現れず、放免された。この事件以後オウニー・ザ・キラーと呼ばれた。1912年2月、地元の美人を巡って口論となった恋敵を追いかけて銃殺した。死に際の恋敵がマドゥンの名を告げたため逮捕されたが、目撃者の証言拒否により放免された[7]。1912年11月6日、52丁目のダンスホールの上階にいた時、知らないうちにダスターズの11人に囲まれ、8発の銃弾を浴びた。銃声を聞いた下階の客が駆け付けるとマドゥンが血まみれ姿で横たわっていた。搬送先の病院はマドゥンの体から銃弾を幾つか摘出したが、すべてを取り出すのをあきらめた。医者は助かる見込みはないと言ったが、生き延びた[8]。警察には何もしゃべらず、病院を抜け出して復讐で相手方6人を殺した[6]

1914年、ダスターズ幹部パッチー・ドイルと恋敵になり、ドイルがマドゥンの違法活動を警察に密告し、また仲間のトニー・ロマネッロを襲ったため、同年11月28日、和解と称してドイルを誘い出して銃殺した。だまし討ちに利用した女仲間が警察に証言したため殺人罪で捕まり20年刑でシンシン刑務所に収監された[1]。刑務所では仲良しになった刑吏のお蔭で葉巻やシルクのシャツが手に入り、ボクシングマッチや野球賭博の幹事になった[9]
禁酒法時代
密輸稼業とコットン・クラブ

1923年特赦で出所すると元ギャング仲間のラリー・フェイ(ローレンス・フェイ)のタクシー会社の用心棒となり、タクシー組合のスト破りやカナダ産ラム酒の密輸のガードマンを引き受けた[2]

1923年12月2日、仲間のジョージ・ディーン・ディマンジ[注釈 2]ら3人でリカーショップに強盗に押し入りウイスキーを強奪したが、使ったキャデラックが特定され捕まった(証拠不在で放免)[注釈 3][11]

1924年、ディマンジと共にフェニックス醸造所を買収し、自らの名前を冠したマドンズ No.1というブランドの酒を生産、スピークイージー(闇酒場)やナイトクラブに持ち込んで儲けた[2][12]。その後ビル・ドワイヤーの密輸オペレーションに加わり、フランク・コステロと知り合った。

ハーレム142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」をジャック・ジョンソン (ボクサー)から買取り、コットン・クラブとして再オープンした[1]


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