オイラー
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レオンハルト・オイラー
Leonhard Euler
Leonhard Euler
生誕1707年4月15日
スイスバーゼル
死没 (1783-09-18) 1783年9月18日(76歳没)
OS: 1783年9月7日]
ロシア帝国サンクトペテルブルク
研究分野数学天文学
研究機関ロシア科学アカデミー
プロイセン科学アカデミー
出身校バーゼル大学
博士課程
指導教員ヨハン・ベルヌーイ
主な指導学生ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ
主な業績オイラー図オイラー数オイラー積分オイラー線オイラーの公式オイラーの等式オイラーの五角数定理オイラーの定数オイラーの定理 (数論)オイラーのφ関数オイラー標数オイラーの分割恒等式オイラー法オイラー予想およびオイラー路の発見、ラグランジュ点発見の端緒をつかむ
署名
プロジェクト:人物伝
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レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler、1707年4月15日 - 1783年9月18日)は、18世紀数学者天文学者天体物理学者)である。

当時の数学界の中心的人物となり、19世紀へと続く厳密化・抽象化時代の礎を築いた[1]。数学者としての膨大な業績と、後世の数学界に与えた影響力の大きさから、19世紀のガウスと共に数学界の二大巨人の一人と呼ばれている[2]

右目を失明していたことから「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」とも呼ばれた[3][4]。さらに後には、数学の研究に没頭し過ぎたあまり左目も失明したが、その後も亡くなるまで研究をやめることはなかった(後述)。
概要・生涯

1707年、スイスバーゼルに生まれる。オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、オイラーには自分の後を継いで牧師になることを望んでいた[1]。1720年にはバーゼル大学に入学し哲学を学んだが、ここで数学者ヨハン・ベルヌーイに出会って数学の才能を見出された。1724年には神学の道へと一旦進んだものの、オイラー自身は数学に強い興味を抱いており、またその才能を見込んだベルヌーイが両親を説得したため、数学専攻へと転じることとなった[5]

1727年、オイラーはロシア帝国サンクトペテルブルクの科学学士院に赴任した[1]。この地で、師のヨハンの子であるダニエル・ベルヌーイの同僚となった。オイラー自身は、1733年にベルヌーイがスイスに帰った後も、サンクトペテルブルクにとどまり続けた。1734年には画家ゲオルク・グゼル(英語版)の娘カタリーナ・グゼルと結婚し、1735年、数論の未解決問題だったバーゼル問題を解決したことで有名になった[6]。しかし、1738年には片目を失明し[7]、さらに帝政ロシアの政情不安によって、研究生活は不安定になった。

1741年、プロイセン王国フリードリヒ2世の依頼[8]ベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住した[1]。オイラーはここでも高い業績を上げ、『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊の数学書を出版した。

また、オイラーはアンハルト=デッサウ公女の教育のために自然科学の入門書を執筆し、その後、この著作は『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 Lettres a une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった[9]。なお、当時のベルリン・アカデミーには近代科学にも明るい哲学者ヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。

啓蒙君主を自認するエカチェリーナ2世が帝位につき、1766年にオイラーは再びサンクトペテルブルクに戻り[1]、ここで厚遇を受けた。しかし、1738年ごろより視力が低下し[1]、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明した。両目の失明後は、オイラーの口述を子どもたちが筆記して、論文に仕上げたという[10]。失明後もオイラーの研究意欲が衰えることは全くなく[1]、同僚の教授たちに自分の論文を読んでもらい、内容に間違いがないか確認し、脳内で「執筆」した論文を口述筆記してもらうことで多数の論文を生産した[11]。1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的な研究活動を続け、人類史上最多とも言われる膨大な量の論文や著書を遺した。墓所はサンクトペテルブルクにあり、アレクサンドル・ネフスキー大修道院にロシア各界の著名者らとともに埋葬されている。
業績
解析学スイスの第6次紙幣の10フラン紙幣

解析学(無限小解析)においては膨大な業績があり、微分積分の創始以来最もこの分野の技法的な完成に寄与したとされる。級数連分数母関数の方法、補間法近似計算、特殊関数微分方程式多重積分偏微分法など、古典的な解析学のあらゆる領域において基礎から応用に至る広い業績があり、自身の発見を教科書を通し広く一般に普及させた。量の膨大さのため、彼の解析学における仕事(いわば公式の一つ一つ)は、彼の業績として完全には伝わっている訳ではなかった。たとえば後年、当初は新たな公式の発見とされたことが実はオイラーが為した仕事の再発見に過ぎなかった、ということがしばしば起きた。このような経緯も含めて、彼の名前は指数関数三角関数の関係を与えるオイラーの公式オイラー=マクローリンの和公式、オイラーの微分方程式、オイラーの定数などとして残っている。さらに複素数変数を積極的に用いて、解析学に限らず数学全分野に大きな業績を残した[1]
数論

フェルマー以降進展がなかった整数論において、ラグランジュの出現までほぼ一人で研究し続け、二次形式原始根フェルマーの小定理の拡張など、数々の功績を残した。


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