エース・フレーリー
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エース・フレーリー
Ace Frehley

基本情報
出生名Paul Daniel Frehley
生誕 (1951-04-27) 1951年4月27日(73歳)
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク ブロンクス区
ジャンルハードロック
ヘヴィメタル
職業ギタリスト
活動期間1973年 -
レーベルシーズン・オブ・ミスト
共同作業者KISS
Frehley's Comet
著名使用楽器
Gibson Les Paul
ピート・タウンゼント
ジェフ・ベック

ポール・ダニエル・フレーリー(Paul Daniel Frehley、1951年4月27日 - )は、アメリカ合衆国ギタリスト1974年のデビュー以来、エース・フレーリー(Ace Frehley)の名で活動している。ロックバンド、キッスの創設メンバーでリードギターをつとめ、1973年のバンド設立とともに参加し、1982年に脱退した。
キッスからの脱退後はソロ活動を行っていたが、1996年にオリジナル・メンバーでの再結成ツアーに参加、大成功を収めた。2002年のFarewell Tour(お別れツアー)終了とともに再結成キッスから脱退。

ローリング・ストーン誌の2007年11月号の企画「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も過小評価されている25人のギタリスト」に於いて第5位。身長185cm。
経歴

ニューヨーク市ブロンクス出身。父カール(1903?2000)と母エスター(1920?2006)のもと、3人の兄弟の三男として誕生。若い頃はニューヨークのストリートギャング、ダッキーズ(Duckies)にスティーヴン・エドワード・ダレン(通称ブラッキー・ローレス、後のヘヴィメタルバンドW.A.S.P.のボーカリスト)とともに加入していた。フレーリーの家庭は音楽一家で、1964年にクリスマスプレゼントとしてエレクトリックギターをもらうと、フレーリーはギターの練習に夢中になった。後に、フレーリーは影響を受けたギタリストとして、ピート・タウンゼントジェフ・ベックを挙げている[1]

結成したバンドカセードラル(Cathedral)でコンサートを開き稼ぎ始めると、フレーリーは高校を退学してしまう。家族や恋人の説得により、ほどなくして学業に戻り卒業認定を得るが、卒業後も郵便配達や家具配達、メッセンジャー、酒屋の配達など、短期の職を転々とした[1]
キッスへの加入

フレーリーは1970年代前半にいくつかのバンドを渡り歩いたが、ほとんど成功しなかった。1973年1月に、ポール・スタンレージーン・シモンズピーター・クリスの3人がThe Village Voice誌にロックバンドのメンバー募集の広告を出していると知り、親友のボブ・マクアダムスとニューヨーク市東23ストリート10番地にあるLive Bait Barでオーディションを受ける。フレーリーは片足に赤のスニーカー、もう一方にオレンジのスニーカーを履いており冴えない姿だった[2]が、メンバー達はその演奏に感銘を受け、オーディションの3週間後彼をバンドのリードギタリストに迎えいれた。1973年中ごろまでには、まだ名前のなかったバンドの名前をキッス(Kiss)に決定。特徴的な2つの稲妻状の形をかたどったロゴマークはフレーリーのデザインによる[注釈 1]。さらにバンドはすぐにライブパフォーマンス用に顔のペイントを施すことを決め、フレーリーはシルバーの星を目の周りにかたどった。その後、各メンバーのキャラクター設定も顔のペイントに応じたものとし、フレーリーはジェンダル星からやってきた宇宙からの訪問者"Space Ace"というニックネームを得る。これが、エースというニックネームの始まりである。

バンドの初期には空席のクラブでリハーサルと演奏を繰り返す傍ら、フレーリーはパートタイムでタクシードライバーをしていた。しかし、1973年9月に新しいマネージャー、ビル・オーコインから各メンバーあたり週に75ドルの給料を得られるようになると兼業をやめた。
キッスデビューから脱退まで

キッスはデビューアルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者 (Kiss)』を1974年2月にリリースした。フレーリーの単独作曲作「コールド・ジン (Cold Gin)」も収められていた。フレーリーは自身の歌声に自信を持てなかったため、ボーカルはベース・ギターのジーン・シモンズが務めた。フレーリーは以降数年に渡って、単独もしくは共同でバンドの楽曲を制作していったが、1977年リリースの『ラヴ・ガン (Love Gun)』における「ショック・ミー (Shock Me)」(自身のコンサート中の感電事故にアイデアを得て制作した曲)に至るまで自身の歌声をレコーディングすることはなかった。

リードギタリストとしてのフレーリーは、荒々しくも情感的な演奏で知られ、1970年代のもっとも人気のあるギタリストのひとりとなり、多くの新世代プレーヤーたちに影響を与えた。書籍「Kiss: Behind the Mask」の中でフレーリーは多くのギタリストたちにヒット作『地獄の狂獣 キッス・ライヴ (Alive!)』でのフレーリーの演奏がギターを取るきっかけになったと言われたという経験を披露している。フレーリーはこの件についてもっと練習しておけばよかった(笑)と語っている。

メインギターは当初ギブソン・ファイヤーバードだったが、デビュー後はハムバッカーを3個搭載したギブソン・レスポールに換えている。

他の3名のキッスのメンバーとともに、フレーリーは自身の名を冠したソロアルバムを1978年にリリースした。このアルバムはメンバーたちのソロアルバムの中でもっとも売れた作品となり、アルバムから収録曲からのシングル(ラス・バラードが書いた「New York Groove」)は全米トップ20に達した。

1979年にはフレーリーの作曲面での存在感はグループ内でも増してきて、1979年発表の『地獄からの脱出 (Dynasty)』には2曲のオリジナル曲と1曲のカバー曲(ローリング・ストーンズの「2,000マン (2000 Man)」)を、1980年発表の『仮面の正体 (Unmasked)』には3曲のオリジナル曲を提供した。しかしこの間、商業面ではキッスは米国内での全盛期とは遠く、他の諸国(特にオーストラリアでは、『地獄からの脱出』と『仮面の正体』は彼らのアルバムとして最大のヒットを記録した)に活動の場を移し始めていた。キッス内でのフレーリーの作曲の役割が強まってはいたが、自身とバンドの音楽の方向性の違いに悩み始めていた。1980年にピーター・クリスがキッスを脱退すると、代わりに加入したドラマーのエリック・カーは正式メンバーとならず、賛否をつけられなかったため、フレーリーはしばしばバンドでの方針決定をする際に2対1で多数決の少数側となることが多くなった。1981年の『?エルダー? 魔界大決戦 (Music from "The Elder")』のレコーディングでは、以前のアルバムよりもフレーリーの参加はさらに限られたものとなっていた。その理由は大きくはフレーリーが、普通のロックアルバムではなくコンセプト・アルバムを作るというバンドの方針に不満を感じていたためであった。

さらに状況を悪化させたのは、フレーリーのきまぐれな行動と薬物の乱用であった。1982年4月に彼は深刻な自動車事故を起こした(運転していたのはアントン・フィグであったが)。5月にはブロンクス・リバー・パークウェイにおいて時速145kmの運転で警察とのカーチェイスを繰り広げた。この事件で600ドルの罰金と6ヶ月の運転免許停止処分を受けた[3]。フレーリーは1982年発表のベストアルバム『キッス・キラーズ (Kiss Killers)』および同年発表のスタジオアルバム『暗黒の神話 (Creatures of the Night)』のジャケットに顔を出したものの、両作品の制作には関わらなかった。フレーリーのバンドとの共演は、「勇士の叫び (I Love it Loud)」用のビデオ、1982年11月のヨーロッパでのプロモーション活動、そして1983年初頭のバンドの世界ツアーのプロモーション用にMTVのバンドインタビューに出演したのが最後であった。
ソロ活動

1983年3月時点でフレーリーは既にキッスの正式メンバーではなくなっていた(1982年12月の Creatures of the Night ツアー開始当初から後任としてヴィニー・ヴィンセントが加入した)が、1984年半ばまでキッスの契約上の4分の1のシェアを有していた。法的ならびに金銭的な問題を避けるため、彼はこの契約が切れるまで、ソロ活動を始めなかった[3]

1984年にフレーリーはキッス脱退後のソロ活動として、ドラマーのアントン・フィグ1978年のエースのソロアルバムと2つのキッスのアルバムで共演)を含むメンバーを迎えてバンドを結成した。


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