エヴァ・ブラウン
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エヴァ・ブラウン
Eva Braun
1942年
生誕 (1912-02-06) 1912年2月6日
ドイツ国
バイエルン王国ミュンヘン
死没1945年4月30日(1945-04-30)(33歳)
ドイツ国
プロイセン自由州ベルリン
総統官邸地下壕
別名エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン
Eva Anna Paula Braun(誕生時の名前)
エヴァ・アンナ・パウラ・ヒトラー
Eva Anna Paula Hitler(結婚後の名前・自殺時の名前)
職業写真店店員→恋人→ファーストレディ・首相夫人
宗教ローマ・カトリック[1]
配偶者アドルフ・ヒトラー (m. 1945)
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エヴァ・アンナ・パウラ・ブラウン(Eva Anna Paula Braun、1912年2月6日 - 1945年4月30日)は、ドイツ国総統アドルフ・ヒトラー

敗戦間際の1945年4月29日にヒトラーと結婚し正式な妻となったが、その翌日、夫と共に地下壕にて自殺した。13年間恋人であったがその関係は公開されなかった。

なお、ドイツ語の発音にもっとも近いカタカナ表記は、エーファ・アナ・パオラ・ブラオン[注 1]
生涯
ヒトラーに出会うまで

エヴァ・ブラウンは父フリードリヒ・オットー・ヴィルヘルム・ブラウン(Friedrich Otto Wilhelm Braun, 通称フリッツ・ブラウン)と母フランツィスカ(Franziska)の次女として、1912年2月6日ミュンヘンに生まれる。

両親はバイエルン出身で、父は教員、家族には3歳年上の姉イルゼ・ブラウン(英語版、ドイツ語版)、3歳年下の妹グレートル・ブラウン(英語版、ドイツ語版)(マルガレーテ:Margarete)がいる。

エヴァは16歳の時、修道院運営の職業訓練校に1年間通うが、体操以外では平凡な成績であった。卒業後、診療所の事務員として数ヶ月勤務した後、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーの専属カメラマン、ハインリヒ・ホフマンのモデル兼助手として雇われる。
ヒトラーとの出会い

1929年10月のある日、17歳のエヴァは23歳年上のヒトラーにホフマンのスタジオで出会う。エヴァはこの時のヒトラーの印象を「おかしな口ひげを蓄えた中年紳士で、イギリス製の明るい色のコートと大きなフェルト帽を身に着けていた」と友人に語っている。ヒトラーの方は、エヴァの目の色がヒトラーの母クララにとてもよく似ていると評している。

出会ったその日からヒトラーはエヴァに惹かれ、エヴァは自分の脚をじっと見るヒトラーの視線に気づいている。その日、ヒトラーはホフマンとエヴァとともに簡単な夕食をとったが、その食事中にもエヴァを見つめ続けていたという。その後、ヒトラーは彼女をドライブに誘うが拒絶されている。

エヴァはヒトラーのことを知らず、ホフマンに聞いて初めてヒトラーが政治家と知った。エヴァが父にヒトラーについて聞くと、父はヒトラーをよく思っていないことを告げたが、エヴァはかえってヒトラーに興味を抱くようになる。

しかしその後、何度もヒトラーはエヴァを誘っており、いつしか二人は交際するようになった。この頃、エヴァは写真店の店員仲間に「ヒトラーと婚約している」と見栄から来た嘘をついており、ホフマンに叱責されている。

エヴァとヒトラーの近親者たちはいずれもこの2人の接近に大反対であった。中でもエヴァの父フリッツとヒトラーの異母姉アンゲラ・ヒトラー(英語版)は、この交際を認めなかった。
嫉妬と2度の自殺未遂

夫に先立たれたアンゲラ・ヒトラー(アドルフ・ヒトラーの異母姉)は、1928年からバイエルン・アルプスの美しい町ベルヒテスガーデンの近郊の山腹オーバーザルツベルクにある山荘ベルクホーフに居住し、ヒトラーの身の回りの世話をしていた。同居していた彼女の娘ゲリは叔父ヒトラーから大変可愛がられていたが、次第にそれは束縛に変わっていった。

1931年9月、ヒトラーとの口論の後、ゲリは拳銃自殺を遂げた。この直前、ゲリはエヴァからヒトラーに宛てた手紙を読んで破いていたことを家政婦は証言している。エヴァはゲリの存在を知らされていなかった。

ヒトラーはゲリの死にショックを受け憔悴するが、結局は19歳のエヴァがゲリの代わりにヒトラーの傍で暮らすことになる。エヴァの日記によるとその時期は1932年の春頃とされる。しかしヒトラーには他にも交際が噂される女性がおり、女優のレナーテ・ミュラー(ドイツ語版)(1907年 - 1937年)への嫉妬はエヴァを苦しめた。エヴァはヒトラーに対して深い愛情を抱いており、あまり男性としての自信が無かったヒトラーに「性的満足も得たいのなら、他の男と付き合いなさい」と忠告されても離れることは無かった。

1932年11月1日、エヴァは自らの胸を拳銃で撃ち、自殺を図った。しかし、弾はそれて頸動脈付近にとどまり、自殺は未遂に終わった。ヒトラーはこの自殺未遂にショックを受け、以降は他の女性との交際を控えていった。ヒトラーは「自分はドイツと結婚した」と主張し続けていたため、“妻”エヴァの存在は山荘の側近だけが知るものであった。

ヒトラーは1933年の首相就任や1934年の総統就任などで多忙な日々を送るようになり、エヴァのもとを訪れる回数も減少した。エヴァはヒトラーの愛情に疑問を抱き、1935年5月28日、睡眠薬の服用による2度目の自殺を図る。エヴァが飲んだ睡眠薬は危険性が低いものであり、命に別状はなかった。この時、エヴァの姉イルゼは自殺が狂言と見られることを恐れ、エヴァの日記を破り取っている。また、9月には父親のフリッツがヒトラーに「娘を家族の元に帰してくれるように」という趣旨の手紙を書いた。この手紙はフリッツに託されたホフマンを通じてエヴァに渡り、彼女は手紙を破り捨てた。また、母のフランツィスカも直接ヒトラーに同じ趣旨の手紙を書いたが、この返事もなかった[2]

回復後、ヒトラーはエヴァに対しミュンヘン郊外に邸宅、メルセデス・ベンツの専用車、運転手、メイドを与えるが、エヴァはすぐにベルクホーフ山荘に戻ってしまう。ヒトラーの首相就任後もヒトラーの異母姉アンゲラとナチス閣僚の妻たちはエヴァの存在を依然として認めようとしなかった。しかし、アンゲラは再婚をきっかけにエヴァの近くに住むことを禁じられ、ドレスデンへ移住した。
ベルクホーフ山荘での生活ベルクホーフのテラスにて、エヴァとヒトラー。右はヒトラーの愛犬ブロンディ1942年6月14日撮影)エヴァが推薦したヒトラーの主治医テオドール・モレル(左奥)とかつての雇い主ハインリヒ・ホフマン(右前)。1940年頃、ベルクホーフにてエヴァ自身が撮影した映像

ヒトラーは「独身であることで婦人票が得られる」と考えていたため、第二次世界大戦が終わり、自らが死ぬまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはなかった。また、オーバーザルツベルクはナチス専用の保養地と位置づけられ、外交や政治の舞台となったが、エヴァの存在が表に出ることはなかった。

もっとも、エヴァは政治にもヒトラーの思想にも無関心であり、生涯ナチ党員になることはなく、興味があったのは流行のファッション、音楽、映画だった。ヒトラーが山荘にいるときは外に出られず、友人や両親、親類を招いて夕食を共にすることが多かった。

軍需相アルベルト・シュペーアの回顧録によると、2人はベルクホーフ山荘、ベルリンの総統官邸地下壕でも寝室は別々であり、もし閣僚などが政治の話をするために部屋に入ってくると、すぐさまエヴァは部屋を出て行った。ヒトラーはエヴァに対して時に侮蔑した態度を取ることもあり、彼女に喫煙や自分以外の男性とのダンスを禁じており、エヴァはそうした束縛に不満を募らせ、しばしば口論していた。

大戦中、エヴァは恋愛小説の読書や友人たちとの映画鑑賞など遊興に時間を費やすほか、写真にも関心があり、裸で日光浴をする写真など、自らを被写体とした写真が多数残っている。自分の暗室も持っており、ヒトラーのスチール写真や映画を現像することもあった。

また、1940年から総統護衛部隊の隊員としてヒトラーに仕えたローフス・ミシュの回顧録によると、カトリック教徒だったエヴァは、ベルヒテスガーデンのカトリック教会に通うこともあったという[1]

1944年6月、妹のグレーテルが親衛隊の将校ヘルマン・フェーゲラインと結婚する折、ヒトラーはエヴァが人前に出ることを許可する。結婚パーティーはオーバーザルツベルクのもう一つの山荘ケールシュタインハウス(通称鷲の巣)で行われた。


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