エヴァルト・フォン・クライスト_(軍人)
[Wikipedia|▼Menu]

エヴァルト・フォン・クライスト
Ewald von Kleist
クライスト上級大将(1940年)
渾名「パンツァークライスト」
生誕1881年8月8日
 ドイツ帝国
プロイセン王国
 ブラウンフェルス
死没 (1954-11-13) 1954年11月13日(73歳没)
ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
 ウラジーミル
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ陸軍
軍歴1900年-1938年
1939年-1944年
最終階級 陸軍元帥
除隊後ニュルンベルク裁判
証人
戦争犯罪人
テンプレートを表示

パウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald von Kleist, 1881年8月8日1954年11月13日あるいは16日)は、ドイツ陸軍軍人。最終階級は元帥第二次世界大戦電撃戦の中核となる装甲集団の司令官などを務めた。
経歴
ドイツ帝国時代

教育者の息子としてプロイセン王国ヘッセン=ナッサウ州(ドイツ語版)ブラウンフェルスに生まれる。1900年、士官候補生として第3野砲連隊に配属される。翌年少尉に任官。1907年ハノーファー陸軍乗馬学校入校。1910年中尉に昇進。1914年3月、騎兵大尉に昇進し第1ユサール連隊に転属。第一次世界大戦の勃発後、タンネンベルクの戦いに従軍。騎兵大隊長として前線で戦い、1917年から終戦までは西部戦線で参謀をしていた[1]マクデブルク駐屯時には後に大統領となるパウル・フォン・ヒンデンブルクと「ちょっとした知り合い」になり、戦後はヒンデンブルクと同じハノーファーに住居したことから、「もっと知るようになった」と語っている[2]
ヴァイマル共和国時代

終戦後の1919年、義勇軍に参加。翌年ヴァイマル共和国ドイツ国軍(Reichswehr)に採用される。1922年少佐に昇進。1923年、ハノーファーの騎兵学校の教官に就任。1925年には大統領選挙に出馬しようとしていたヒンデンブルクを訪問し、「政治家になれば、政治家としても人間としても面目を失うかもしれない」と出馬自粛を進言している[2]。1928年、ブレスラウの第2騎兵師団に転属。中佐に昇進し、1931年にポツダムの第9歩兵連隊長。1932年1月1日大佐に昇進し、ゲルト・フォン・ルントシュテットの後任として第2騎兵師団長となり、1932年10月少将に昇進[3]
ナチス政権時代

1934年中将に昇進。1936年、騎兵大将に昇進し、ブレスラウの第8軍団司令官に就任。1938年2月4日、元陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将などと共に軍を退役した。クライストは退役の理由を、ルター派教会に属する自分としては「教会その他の宗教問題に対するナチ党の姿勢に賛同できなかったこと」と「宗教を擁護しすぎたこと」が原因であると語り、自身が発令した年少兵に対する礼拝への参加命令や、それを撤回せよという1937年における国防軍最高司令部 (OKW) からの指令を拒否した事を例に挙げている。他方OKW長官ヴィルヘルム・カイテルについては、「もちろんカイテルの責任ではない。彼は党から圧力をかけられてそう命じたのだ」と擁護している[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef