エンロン1996年から2001年まで使用されていたロゴ
ポール・ランドが生前、最後にデザインしたロゴである[1]。
本社の入居していたエンロン・コンプレックス(テキサス州ヒューストン)
元の種類株式会社
業種電気・ガス業
事業分野総合エネルギー取引
ITビジネス事業
その後倒産
設立1985年
エンロン(英語: Enron Corporation)は、かつてアメリカ合衆国テキサス州ヒューストンに存在した総合エネルギー取引とITビジネスを行っていた企業。2007年3月に Enron Creditors Recovery Corp. に改称した。
2000年度年間売上高1,110億ドル(全米第7位)、2001年の社員数21,000名という、全米でも有数の大企業であった。しかし、同年6月エンロンが参加していたインドのダボール電力(Dabhol Power Company)が閉鎖となった。そこへ巨額の不正経理・不正取引による粉飾決算が明るみに出て、2001年12月に破綻した(エンロンショック)。エネルギー業界の粉飾としては、世界恐慌で崩壊したサミュエル・インサル(トーマス・エジソンの秘書)の金融帝国と並ぶ規模である[2]。
破綻時の負債総額は諸説あるが少なくとも310億ドル、簿外債務を含めると400億ドルを超えていたのではないかとも言われている[3]。2002年7月のワールドコム破綻まではアメリカ史上最大の企業破綻であった。 エンロンの起源は、1931年に数社のエネルギー(ガス・電力・パイプライン)関連企業が集まってできたノーザン・ナチュラル・ガスにさかのぼる。1979年に同社は企業再編を行い、持株会社としてインターノースを設立した。ガス業界の規制緩和によって業界再編が進む流れの中で、1985年にインターノースがヒューストン・ナチュラルガスと合併してエンロンが誕生した。当初は、英語のenter(入る)とon(続ける)を組み合わせたEnteronを合併会社の社名としたが、"enteron"という英単語が「消化管」を意味することに気づいたため、短縮したEnronを採用した。また、この合併はインターノースがヒューストン・ナチュラルガスを買収する形で行われたが、本社は後者の本拠地であったヒューストンに置かれ、なおかつ後者のCEOであったケネス・レイが合併会社のCEOに就任し、2001年の破綻に至るまで実権を握っていた。 1980年代の暮れには、業界の先端を走るようにガス取引に積極的にデリバティブを取り入れ、企業規模を拡大していった。経済学を学んだスタッフを多く抱え、エネルギー業界に限らないキャッシュ・フロー経営の最先端企業ともなり、アメリカの投資バブルにも支えられ、安定した経営をアピールした。こうした一方、1980年代暮れには粉飾会計に手を染めていた。1990年代にデリバティブを規制するため普及した時価主義
歴史
1990年代後半には、デリバティブで電力価格がわかりにくくなっているのを利用して、同じ電力に対して同量の売りと買いを発生させて実質の取引量がゼロであるにもかかわらず売上を上げる取引も積極的に取り入れた(循環取引)。空売りなどによる売上・利益確保は2000年のカリフォルニア電力危機においても積極的に行われたため、この危機の原因の一つともなった。1998年には利益に占めるデリバティブ比率は8割を越えた。
1990年代末には、グループ企業エンロン・エナジー・サービス (Enron Energy Services : EES) を設立し、ESCO事業を手がけた。
カリフォルニア電力危機に関しては、電気の値段を吊り上げてもっと利潤を増やすために、カルフォルニア州の電力供給を止めてしまった。後に明るみに出た当時の社内の通話記録では、従業員達が停電で困っている高齢者をネタにして笑うなどしており、エンロンの経営陣は全く罪の意識を感じていなかった。 この裏では、取引損失を連結決算対象外の子会社(特別目的事業体: Special Purpose Entity, SPEと省略されるシャドー・バンキング・システム)に付け替えて簿外債務とすることも積極的に行われた。会計を全米有数の会計事務所であったアーサー・アンダーセンが担当していたために、決算における市場の信頼は厚かったが、実際にはアーサー・アンダーセンならびに顧問法律事務所も、数々の違法プロジェクトの遂行や粉飾決算に加担していた。 損失を簿外に隠蔽するプロジェクトの例として、ADSLをベースとするISPであったリズムス・ネットコネクション株に関するLJMプロジェクトがある。エンロンはリズムス株を1998年3月に1株あたり1.85ドルで買収したが、1999年4月に同社が上場すると上場日の終値は69ドルにもなり、その後も上昇を続けたため、エンロンが採用していた時価会計によって評価益が発生した。しかし、実際には契約によりエンロンはリズムス株を4年間売却することができず、あくまでも経理上の評価益にとどまっていた。 このリズムス株の値下がりリスクをヘッジするという名目で、エンロンはSPEであるLJMパートナーズを設立した。最大で3億ドル近くあった評価益を、エンロン本体は1億ドルのみ計上して、残りの2億ドル程度をLJMに移管し、その代わりにリズムス株が値下がりした場合の損失はLJMが負担することとした。LJMは事実上、エンロンと一体のものであったが、巧妙に連結対象外となるように仕組まれており、リズムス株がその後急落して評価損が出るとその損失を簿外に隠蔽する役割を果たした。 さらに、LJMの設立にあたっては、CFOのアンドリュー・ファストウ
損失隠し
リズムスはその後2001年8月に破綻したため、本来であればエンロン本体として計上すべき1億ドルの損失が隠蔽されることになった。LJMの場合には当初の設立目的は損失隠しではなく、結果的にその役割を果たすことになったが、後には多くのSPEが最初から巨額の損失を簿外に隠蔽する目的で設立された。 1999年に設置した「エンロン・オンライン」においては、電力だけでなく、元々エンロンのフィールドであったガス・石油をはじめ、石炭、アルミニウム、パルプ、プラスチック、果ては信用リスク、天候、ネットワーク帯域幅、排ガス排出権に至るまで、あらゆる商品の市場をインターネット上に開設し、そのすべてでエンロン自体が売り手・買い手として取引を行った。 このエンロン・オンラインのアイデアとシステムは、稼働当時はもちろん、エンロン破綻後も高く評価されていた。しかし、ビジネスモデルが手数料ビジネスではなく自ら売買を行うトレーディングであったにもかかわらず、これまで経験のない商品の市場にも積極的に乗り出していったために、もともとその市場にいたプレーヤーにいいように利用された面もあった。 エンロン・オンラインの急激に拡大していった売上・利益は、帳簿上のものにすぎなかったのである。 折からのアメリカにおけるITバブルの波にも乗り、1990年代後半にはエンロンは革新的でなおかつ安定した成長を続ける超優良企業としての名声を確立していった。 1999年には、ヒューストン・アストロズの本拠地球場の命名権を30年・1億ドルで買収し、「エンロン・フィールド」と名付けた。エンロン破綻後、2002年2月にアストロズは5百万ドルを支払って契約を解除した。 エンロンはロビー活動にも積極的であり、2000年の大統領選挙の年には共和党・民主党の双方に対して、合計で20億ドル以上という高額の政治献金を行った。
エンロン・オンライン
1999年 CFOマガジン CFO賞(CFO Excellence Award)をCFOのアンドリュー・ファストウが受賞
1996年?2001年(6年連続) 『フォーチュン』誌「アメリカで最も革新的な企業」
政治との関係