エンリケータ・エステーラ・バルネス・デ・カルロット
生誕1930年10月22日(85歳)
ブエノスアイレス
国籍 アルゼンチン
職業教師・人権活動家
著名な実績「5月広場の祖母たち
エンリケータ・エステーラ・バルネス・デ・カルロット(スペイン語: Enriqueta Estela Barnes de Carlotto, 1930年10月22日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の人権活動家(女性)。人権活動団体「5月広場の祖母たち(英語版)」(プラザ・デ・マージョの祖母たち)の代表を務めている。国際連合による国連人権賞(2003年)やユネスコによるフェリックス・ウーフェ=ボワニ賞(英語版)(2010年)などを受賞している。
目次
1 経歴
1.1 娘の誘拐と監禁
1.2 人権活動
1.3 孫の発見
2 脚注
3 文献
4 外部リンク
1930年10月22日、エンリケータ・エステーラ・バルネスはブエノスアイレスにあるイングランド系アルゼンチン人の家庭に生まれた。工場労働者のギド・カルロットと結婚し、4人の子どもを儲けた。自身は初等学校の教師を務め、また平凡な主婦でもあった[1]。 1970年代のアルゼンチンは軍事独裁政権による国家再編成プロセス(1976年-1983年)の過程にあり、カルロットの子どものうち3人が政治に巻き込まれた。国立ラプラタ大学
経歴
娘の誘拐と監禁カルロット(左)とネストル・キルチネル大統領
ホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による「汚い戦争」が行われていた1977年末、妊娠3か月のラウラが誘拐された。ラウラはラプラタにある秘密拘置所「ラ・カチャ」に運ばれ[4]、1978年8月末まで監禁された。1978年4月に解放されたラウラの監禁仲間はカルロットに対して、「ラウラはまだ生きており、妊娠している」と伝えた[3]。ラウラは出産の直前に別の場所に運ばれ、1978年6月26日に出産している。この場所はブエノスアイレス軍事病院(英語版)だったとする証言があり[5][6]、他の場所だったとする証言もある[7]。
ラウラは6月に出産すると言っており、もし男の子だったら父親(カルロットの夫)と同じようにギドと名付けると語っていた。私は孤児院を探した。
? エステーラ・バルネス・デ・カルロット[3]
カルロットはラウラの解放のためにあらゆる手を尽くした。レイナルド・ビニョーネ中将と面会した際、ビニョーネ中将はカルロットに対して「ラウラは生きていないだろう」と語った[8]。ラウラは生まれてくる子をギドと名付けたがったため、カルロットとその家族はラウラの息子のことを常にギドを呼んだ[9]。1978年8月25日には軍に召喚され、ラウラの遺体を渡された。ラウラは2日後にラプラタの墓地に埋葬された。遺体が家族の元に戻った数少ないケースである。カルロットは8月30日に校長職から退いた[10]。
人権活動カルロット(中央右のピンク色の服)とクリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル大統領(中央の茶髪の美魔女)を中心とする集まり
1977年10月22日には[11]アリシア・デ・ラ・クアドラと11人の「祖母」たちによって「孫を失った祖母の会」が立ち上げられ、1979年4月にはカルロットはこの人権活動団体のメンバーとなった。ギドの捜索を開始し、軍事独裁期間に軍事政権によって誘拐されたり行方不明となった孫たちの解放を要求した。この団体は1980年に「5月広場の祖母たち(英語版)」に改名、カルロットはやがて副代表となり、1989年には代表となった[12]。
1980年にはブラジルのサンパウロに赴き、類似する団体を組織していた女性と会った。この際にはラウラが解放の際に殺害されたと信じるようになったという[13]。
軍政下では約500人の子どもが母親の拘束下で生まれ、子どものいない軍人家庭などに引き取られた[14]。その大半は養親に売られ、中には真の親の殺害に関与した者もいる[12][15]。