エンリケ・イグレシアス
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この項目では、ラテン・ポップ・ミュージシャンについて説明しています。エンリケ・V・イグレシアス元総裁については「米州開発銀行」をご覧ください。
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Enrique Iglesias
カナダトロントのケーブルテレビ局公開番組マッチ・オン・デマンドにて
基本情報
出生名Enrique Miguel Iglesias Preysler
生誕 (1975-05-08) 1975年5月8日(49歳)
スペインマドリード
出身地 アメリカ合衆国
学歴マイアミ大学中退
ジャンルラテン・ポップ
活動期間1995年?現在
レーベルユニバーサルミュージック (米国)
公式サイト ⇒Enrique Iglesias Official Website

エンリケ・イグレシアス(Enrique Iglesias、1975年5月8日 - )は、スペインマドリード出身、アメリカ合衆国マイアミ在住の歌手

グラミー賞、ラテン・グラミー賞、ビルボード・ミュージック・アワード、アメリカン・ミュージック・アワード、ワールド・ミュージック・アワードなどを受賞している。ヒット曲の中でも日本ではトヨタ・MR-Sコマーシャルに使用され西城秀樹カバーした『Bailamos』と、『恋するトップレディ』の主題歌であった『Hero』が有名。
幼年期

イグレシアスは、レアル・マドリードの元二軍サッカー選手で世界的に有名な歌手となったフリオ・イグレシアスと、フィリピンとスペインのミックスで元モデルのセレブリティであるイサベル・プレイスレル(Isabel Preysler) の間に次男として生まれた。4歳上の姉がニュースレポーターのチャベリ・イグレシアス (Chabeli Iglesias)、2歳上の兄は同じく歌手のフリオ・ホセ・イグレシアス(Julio Jose Iglesias フリオ・イグレシアス・ジュニアとも呼ばれる)である。ほかに異父兄弟が2人、異母兄弟5人がいる。[1]

エンリケ・イグレシアスは、3歳の時に両親が離婚、父はアメリカ合衆国フロリダ州マイアミに移り、子ども達は母とマドリッドに住んでいた。しかしイグレシアスの祖父、フリオ・イグレシアス・プガ (Julio Iglesias Puga) がバスク地方のテロリスト集団ETAに誘拐された事件[2]が起こり、1982年、身の危険を感じた母によって、兄姉とともにマイアミの父親の元に送られる。[3]

父親は不在のことが多く、イグレシアスは母親に会うために毎年夏をスペインで過ごす以外は乳母のエルビラ・オリバレス (Elvira Olivares)に育てられた[4]。最初のアルバムもエルビラに捧げられたものである[5]

イグレシアスは億万長者の息子として非常に裕福な生活を楽しんでいたが、後にシンプルさを好むようになった。その傾向はコンサートでも見られ、白いコットンシャツにジーンズといった地味な衣装で現れるようになった。
キャリア
歌手

イグレシアスの最初のキャリアは、プレップ・スクールのガリバー高校(Gulliver) 在学中に出演したミュージカル『ハロー・ドリー!』 (Hello, Dolly!)である。両親に秘密で歌のレッスンを始め、経営学を学ぶためにマイアミ大学に一年通った後、音楽の道に進むことを決心した。イグレシアスは契約してくれるレーベルをさがしていたが、契約にこぎつけるまで本名を名乗ることを頑なに拒み、エンリケ・マルティネス (Enrique Martinez) という仮名を使った。デビューに至る経歴は、素性をまったく知らない第三者がイグレシアスのデモテープを聞いて才能を認めたという説[4]と、父親の元マネージャーでデビュー当時からエンリケ・イグレシアスのマネージャーを務めたコロンビア人のフェルナン・マルティネス (Fernan Martinez)[6]に支援を頼んだという説[5]がある。

イグレシアスとマネージャーの2人は、無名の中南米出身の歌手としてエンリケ・マルティネスのデモテープを各社に渡して売り込んだが、大手すべてに断られた。ようやくメキシコ音楽などを扱うスペイン語系レーベルのフォノビサ (Fonovisa)だけが興味を示した。フォノビサと契約を結んだイグレシアスはカナダトロントで1枚目のアルバムのレコーディングを行う。

1995年発売の最初のアルバム『Enrique Iglesias』は発売3ヶ月で100万枚を突破し、最初のゴールドディスクは発売後わずか7日で手に入れたポルトガルのものである[4]。700万枚のセールスを記録したアメリカではプラチナディスクを得ている。フォノビサからはデビューアルバムに次いで、1997年『Vivir』1998年『Cosas del Amor』をリリースしている。フェルナン・マルティネスのアドバイスで、『Cosas del Amor』では初めて英語で(スペイン語と半分ずつだが)歌った曲『バイラモス』が収録されている[6]

フォノビサでの成功(プラチナディスク2枚、ゴールドディスク1枚)によって、業界大手のユニバーサルミュージックとアルバム6枚を出す契約を結び、スペイン語圏から英語圏市場へ進出した[7]。そして2000年2月には国民的祭典スーパーボウルのハーフ・タイム・ショーに出演し、2003年12月にはニューヨークの風物詩ロックフェラーセンターのクリスマス・ツリー点灯式に招待されるなど、ラテン社会のみならずアメリカのメインストリームでも受け入れられるスターとなった。

2000年6月には口パク疑惑が起こった。辛らつでショッキングな放送内容で有名なニューヨーク在住のラジオ・パーソナリティー、ハワード・スターンは、音程のはずれた『Rhythm Divine』(イグレシアスの歌うMP3[1] と歌う映像ビデオ ⇒[2])らしきものを受け取った。スターンはこの激しく音痴で可笑しい歌を自分の番組で一週間にわたって流し、イグレシアスのライブが口パクでスタジオの外では上手く歌えないどころか、ミリ・ヴァニリと同じようにアルバムは別人が歌っているとまでほのめかした。イグレシアスはニューヨークに直行しハワード・スターン・ショーに出演、アコースティックで『Rhythm Divine』 と 『Be With You』を歌った。スターンは批判を止めるとイグレシアスに言った。イグレシアスはこの疑惑とハワード・スターン・ショーへの出演は、結果として最高のプロモーションになったと語っている。

日本には2000年2月にプロモーションで訪れHMV渋谷店でファン・イベントを行った。2002年1月にも『エスケイプ』のプロモーションで再来日し、1月27日にHMV渋谷店でミニコンサートを開き、1月29日に『笑っていいとも』、2月2日に『ポップジャム』などに出演した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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