「エンタープライズ」
艦歴
発注ジョン・ブラウン・アンド・カンパニー
起工1918年6月23日
進水1919年12月23日
就役1926年4月7日
退役1946年1月13日
その後1946年に解体
除籍
性能諸元
排水量満載:7,700トン
全長173.7 m
全幅16.6 m
吃水5.0m
機関ヤーロー式重油専焼水管缶8基
+ブラウン=カーチス式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力80,000 bhp (60 MW)
最大速力33.0ノット (61 km/h)
乗員572名
兵装Mk XII 15.2cm(45口径)連装砲1基、単装砲5基
10.2cm(45口径)単装高角砲3基
ヴィッカース QF 2ポンド砲2基
53.3cm四連装魚雷発射管4基
航空兵装水上機:2基
カタパルト:1基
エンタープライズ(HMS Enterprise)は、イギリス海軍のエメラルド級軽巡洋艦。1918年6月28日に起工し、ジョン・ブラウン・アンド・カンパニーで建造された。1919年12月23日に進水、1926年4月7日に就役した。
エンタープライズは、当初の前方2基の単装砲塔の替わりに試作の6インチ連装砲塔を搭載し、試験運用が成功したためその後の就役期間中もこの連装砲塔が採用された。この砲塔は後にリアンダー級、アリシューザ級の設計に取り入れられた。砲塔の設置スペースは、エメラルド
の1番砲塔と2番砲塔の設置スペースより少なかったため、ブリッジはさらに前方に配置された。このブリッジは従来とは異なり前檣と操舵室を同一区画に配置するように設計されており、この設計はカウンティ級重巡洋艦にも採用されることになる。本国海域で数ヶ月間過ごした後、エンタープライズは東インド諸島の第4巡洋艦戦隊(英語版)に所属した。最初の任務は1928年9月19日から12月10日にかけて、現在でもケニアで行われているラグビーユニオンの大会であるエンタープライズカップ(英語版)の歴史により説明される注目すべきものであった。エンタープライズはその後、東インド諸島の基地での任務をいくつかこなし、1934年7月4日に帰国してメンテナンスを行い、その後大規模な改装を行い1936年1月に東インドに戻った。
1936年5月7日、イタリアが第二次エチオピア戦争でエチオピアを占領した際、エンタープライズは同地から逃れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世を乗せてフランス領ソマリランドのジブチを出港、イギリス委任統治領パレスチナのハイファへ入港した。亡命したハイレ・セラシエは1941年にエチオピアに戻っている[1]。
1938年2月、アスローン伯爵夫人アリス王女とその夫アレキサンダー・ケンブリッジ(英語版)が本艦に搭乗してサウジアラビアを訪問し[2]、これは英国王室による初の訪問となった。同年末には 中国艦隊への乗組員輸送に従事し1938年9月30日に帰国、予備艦隊に配備された。 1939年9月、第二次世界大戦が始まると、エンタープライズは再就役し、第4巡洋艦戦隊の一員として大西洋の哨戒任務に就いた。その後北アメリカ・西インド艦隊に編入。1939年から1940年にかけて、ハリファックス護衛隊とともに大西洋の護衛任務に就いた。1939年10月にはフィッシュ作戦
第二次世界大戦
開戦時
1940年4月、本国艦隊に配備されノルウェーの戦いに参加。4月から5月にかけて、ノルウェーのナルヴィク周辺で砲撃を行い上陸したイギリス軍を支援した。4月19日にはドイツの潜水艦 U65(英語版)の攻撃を受けるも損傷はなかった。5月25日、ノルウェーの国庫金の3分の1に相当する金塊を積んでハーシュタを出港しイギリスへ向かった。スカパ・フローを経由して航行し、途中2度のドイツ軍の空襲を受けるもグリーノックに到着し、そこで金塊を陸揚げした[3]。
船体の修復後、エンタープライズは1940年6月に新しく結成されたH部隊に加わり、地中海に向けて出港した。7月には戦争におけるフランス艦隊の将来についてフランス海軍との交渉に参加したが、交渉が不調に終わったためメルセルケビール海戦に参加。