エンジェル島
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エンジェルアイランド収容所
サンフランシスコ
エンジェルアイランド収容施設
地図
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度52分10.9秒 西経122度25分33.6秒 / 北緯37.869694度 西経122.426000度 / 37.869694; -122.426000座標: 北緯37度52分10.9秒 西経122度25分33.6秒 / 北緯37.869694度 西経122.426000度 / 37.869694; -122.426000
エンジェル島の地図

エンジェル島収容所(エンジェルとうしゅうようしょ、Internment of Angel Island)は、19世紀後半から第二次世界大戦までエンジェル島におかれた収容施設。サンフランシスコ湾に浮かぶ3.1km2のエンジェル島は、南北戦争中に軍事拠点となり、以後、軍事基地(キャンプ・レイノルズ)、公衆衛生局検疫所、および移民局と拘留施設が設置された。島の北東におかれた収容施設は、1882年の中国人排斥法以降、主に中国や日本などアジアから来た約100万人の移民を拘留し尋問する場所となった。

第二次世界大戦中は日本やドイツの捕虜が収容された。沖縄戦も含め、太平洋戦線で捕らえられた捕虜の一部はゴールデンゲートブリッジを通過し、いったんここに収容され、さらに内陸部の収容所に移送された。南側には要塞と刑務所で名高いアルカトラズ島がある。現在は両島とも含めゴールデンゲート国立保養地 (GGNRA) に指定され、公開されている[1]。またエンジェル・アイランド州立公園に指定され整備されている[2]

このページでは、特に第二次大戦中のエンジェル島収容所について扱う。
歴史

約1万年前、最終氷河期の終わりによる海面上昇によってエンジェル島は陸地から遮断され島となった。約2000年前から、島は海岸ミーウォク系アメリカ先住民の釣りと狩猟の場所であり、その定住跡がティブロン半島で見つかっている。1775年、スペイン海軍の艦艇サンカルロスが、フアンデ・アヤラの指揮下でサンフランシスコ湾に入港し、エンジェル島に停泊した。島の入り江、アヤラ・コーブの名前はこれに由来する。

1863年、南北戦争中、米軍は南軍がサンフランシスコを攻撃することを懸念し、島に砲台を建設した。陸軍は島の東部に基地を設立し、「キャンプ・レイノルズ」(またはウェスト・ギャリソン)と名付けられた。南北戦争後は、西部のアメリカ先住民の討伐を目的としたインディアン戦争の駐屯地となった。

19世紀後半、米陸軍は島全体を「フォート・マクダウェル」と指定し、西側と太平洋側に展開する部隊のトランジット拠点として機能した。1891年に北東のアヤラコーブに検疫所が開設され、隔離病棟施設では腺ペストの疑いがあるとみなした中国系をはじめとしたアジア系の住民を収容し隔離する政策をとった。

さらに1910年から1940年まで北西側のチャイナ・コーブに移民局が開設され、「西のエリス島」と呼ばれ、主に太平洋を航海した中国人、日本人、その他のアジア人移民の検査と検疫、そして拘留のために使用された[3]。1882年の中国人排斥法から継続し、約100万人の中国系移民が収容された。劣悪な環境の中で1940年8月に管理棟が全焼し、移民局は本土に移され、エンジェル島の移民局は閉鎖。1943年、議会は太平洋戦争の同盟国となった中国を配慮して中国人排斥法を廃止した。

1941年の真珠湾攻撃と第二次世界大戦への参入は、太平洋側の軍事施設の重要性を一気に増大させ、エンジェル島のフォート・マクダウェル基地は太平洋戦線への出発地点として戦争中約30万人の兵士を送りだした。火事で閉鎖された移民局の施設群は基地の食堂や兵舎などとして追加され、マクダウェルのノース・ギャリソンとよばれた。このノース・ギャリソンのなかに、第五列とみなされたハワイの日系、ドイツ系、イタリア系移民を拘留する収容所がつくられた[4]、こうした抑留者は後に内陸にある司法省と陸軍のキャンプ施設に移送された[5]

その後、入れ替わるように日本とドイツの捕虜が送り込まれた。また1942年5月15日に陸軍省は極秘裏の捕虜審問センターの開設を決定し[6]、その二カ所のうちの一つはエンジェル島から南東約70km南東のトレイシーにあった。

1947年には陸軍基地が撤退し、1954年から再び陸軍工兵隊によってナイキ・アジャックスのミサイルサイトと通信施設が建設されたが、1962年にこれも撤去された[7]。ミサイル発射台跡が南東の角にあるポイントブラントに残っている。

1970年、収容施設の取り壊しの直前、カリフォルニア州立公園のレンジャー、アレクサンダー・ワイスが兵舎の壁に書かれた中国語の詩を発見し、施設の保存を求める声が高まる。1976年も州議会の予算を受け抑留兵舎を修復し博物館とする計画がスタートし、1983年に完成した。
エンジェル島移民局

1905年、チャイナコーブに移民局が建設され、1910年から1940年まで運営された。特に太平洋側から米国に入国する移民を管理、尋問、拘留するための施設であった。1870年代、景気後退で深刻な失業問題は、低賃金で働くアジア系移民に対する差別的反感に拍車をかけた。1882年に中国系移民を対象とした中国人排斥法が可決され、最終的に1924年の移民法に統合され、アジア系移民を大きく制限するものとなった。エンジェル島移民局の移民は84か国から到着し[8]、なかでは中国系移民が最大のグループであったが、次に日系移民が続き、1915年には日系移民が中国系移民を上回った[9]

また太平洋側からの移民の中には、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアでナチスの支配から逃れた数百人のユダヤ人がいた[3]サン・ブルーノの公文書館に残されているエンジェル島の移民記録では、1939年から40年にかけて約500人のユダヤ人が日本や中国から出港しサンフランシスコに到着したことを示している[10]。主なルートとしてはラトビアリトアニアからモスクワへ、そしてシベリア鉄道ウラジオストク、そこから敦賀港を経て神戸や横浜に、さらに太平洋を横断してエンジェル島に到着する。あるユダヤ人家族は、楽洋丸で太平洋を横断し、エンジェル島に9日間収容されたのちに自由の身となった。ベルリンを出発してから2ヶ月近くかかったことになる[10]現在、旧収容施設は博物館として一般展示されている。移民局での審査(1923年)
強制収容所

1940年の火事で閉鎖されたチャイナ・コーブの移民局の敷地は、第二次世界大戦から米陸軍フォート・マクダウェル基地の捕虜プロセシング・センターとして使用されるようになる。真珠湾攻撃後、大統領令9066号によって、ハワイと米国大陸からの日本人移民、およびドイツとイタリアからの移民の一部は、米国司法省によってエンジェル島に一時的に抑留され、その後、内陸の西半分に位置するトゥール湖、マンザナートパーズなどの戦争移住局(WRA)の移住センターに強制収容された。(日系人の強制収容

また、FBI司法省はさらに17,000人の日系アメリカ人と日系中南米出身のアメリカ人を「敵性外国人」(enemy aliens) の疑いで捜査し、1942年2月以降、主にハワイから約600人、西海岸から90人近くの日系アメリカ人が、エンジェル島に抑留された。彼らはここで数週間を経由し、ニューメキシコ州のロードスバーグとサンタフェ、モンタナ州のミズーラ、テキサス州のクリスタル・シティ[11]などの捕虜収容所に転々と移送されていった[12][13][14]。エンジェル・アイランド移民局財団とグラント・ディン (Grant Din)[15] は、歴史に埋もれたエンジェル島における日系人収容の実態を研究し、オーラル・ヒストリーを記録し続けている[16]
捕虜収容所

太平洋戦線で捕虜となりアメリカ本土に連れてこられた5,000人を超える日本人捕虜がまず向かったのはエンジェル島だった[17]。フォート・マクダウェルのなかにある四階建ての兵舎には三段ベッドがずらりとならび、医療体制も整い、食事メニューも豊かで、常時500名の捕虜を収容することができた。血みどろと玉砕の戦場から遠く離れ、サンフランシスコの街並みとゴールデン・ゲート・ブリッジをくぐりぬけてやってきた捕虜ひとりひとりに、尋問官が時間をかけてむきあい、尋問官が尋問にことさら暴力を使う必要はなかった。ここで重要情報を持っている捕虜かどうか捕虜の情報的価値を品定めされ、選ばれた捕虜は、そこから70kmほど離れたトレイシーの捕虜尋問所におくられた。選別に漏れた捕虜は、ウィスコンシン州フォート・マッコイルイジアナ州キャンプ・リビングストンなど、本土9カ所の他の捕虜収容施設に移送された[18]


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