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オーストリアの政治家エンゲルベルト・ドルフースEngelbert Dollfus
生年月日1892年10月4日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国 テクシング
エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfus、1892年10月4日 - 1934年7月25日)は、オーストリア第一共和国の政治家。 目次
1 生涯
1.1 青年期
1.2 政治活動の開始
1.3 オーストリア首相
1.4 暗殺
2 脚注
2.1 注釈
2.2 出典
3 参考文献
生涯
青年期 青年期のドルフース(中央)
1892年にテクシング(ドイツ語版)(現在のメルク郡テクシングタール)で、ヨーゼフ・ヴェニンガーと恋人ヨーゼファ・ドルフースとの間に生まれる。しかし、2人は互いに貧農の出身だったため、財政的な理由で結婚することが出来なかった。ドルフースが生まれた数カ月後、母ヨーゼファはキリンベルク・アン・デア・マンク(ドイツ語版)の地主レオポルト・シュムンツと結婚したが、シュムンツはドルフースを息子として受け入れなかった。ドルフースは敬虔なカトリック教徒として育ち、1904年に奨学金を得てホラブルン(ドイツ語版)の神学校に進学する。1913年に修士号を取得し、ウィーンの神学校に進もうと考えたが、その後ウィーン大学に進み法律を専攻した。
第一次世界大戦が勃発すると、ドルフースは徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局は徴兵された[1]。ドルフースは砲兵師団に配属されイタリア戦線に従軍するが、1918年にイタリア軍の捕虜となる。戦後はウィーン大学に戻り学業と学生団体での活動を行い、後に学生連合の代表となった。同時期にアルトゥル・ザイス=インクヴァルト、ロベルト・ホルバウム(ドイツ語版)、ヘルマン・ノイバッハー(ドイツ語版)と知り合い、国家主義・反ユダヤ主義思想を身に付けた。1919年からはベルリン大学で経済学を学び、同時に農民協会で秘書を務めた。この頃にプロテスタントのアルヴィネ・グリエンケと出会い、1921年に結婚した[2]。ドルフース夫妻は1男2女をもうけるが、女児のうち1人は幼児期に死去している。
政治活動の開始 ブレシュ内閣(後列左端がドルフース)
1922年に法学博士号を取得する。卒業後は農務省で働き、農民協会の総裁を務めた。1927年にはニーダーエスターライヒ州の農業議会議長となる。ドルフースはキリスト教社会党(ドイツ語版)の指導者カール・フォン・フォーゲルザング(ドイツ語版)に心酔して入党し、農業組合設立や失業した農民のための給付金創設のため活動した。1930年9月30日に党員のカール・ファウゴイン(ドイツ語版)が首相に就任するとオーストリア連邦鉄道の総裁に任命されたが、ファウゴン内閣は12月の議会選挙でオーストリア社会民主党が議席を伸ばした責任を取り総辞職した。