エングリッシャーガルテン
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イギリス庭園の秋の風景

エングリッシャーガルテン(Englischer Garten)またはイギリス庭園は、ドイツミュンヘン中心部にある大規模な公園で、中心街から市の北に向かって延びている。

総面積は373haで、都心部から歩いて行ける公園としては世界的に見ても規模が大きく、ニューヨークのセントラル・パークより広い。名称はドイツ語でイギリス式庭園を意味し、18世紀中ごろから19世紀初めにかけてイギリスで流行したランスロット・ブラウンに代表される幾何学的でない造園方式で設計された。
歴史
始まりトンプソンの貢献を称えたランフォード記念碑が庭園内にある。

バイエルン選帝侯マクシミリアン3世ヨーゼフは1777年に子がない状態で死に、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン系統が途絶えた。そのため後継者にはライン宮中伯プファルツ選帝侯)だったカール・テオドール (1724-1799) が選ばれた。彼はマンハイムに住み続けたいと考えていたため、継承したくなかったバイエルン選帝侯領とオーストリア領ネーデルラントを交換しようとしたが、失敗した。当然ながらミュンヘン市民も彼に反発した[1]。その不幸な雰囲気の中で、カール・テオドールはミュンヘン市の改良に注意を向けた。中でもホーフガルテンの北のアーケードに美術館を作り、庭園と美術館の両方を一般に開放した(庭園は1780年、美術館は1781年に公開)[2]

ミュンヘンには公園がホーフガルテンしかなく、何か新たなものが必要とされていた。しかし、それがイギリス庭園を造る主な動機となったわけではない。むしろベンジャミン・トンプソンが進めていた軍隊改革の一部として行われたもので、彼は後にランフォード伯となり、バイエルンの戦争大臣を務めた。アメリカのマサチューセッツに生まれたトンプソンは、アメリカ独立戦争ではイギリス側として働き、イギリスの敗北後はヨーロッパに移住して1784年にカール・テオドールの下で勤めていた[3]。1788年、トンプソンは平時に兵士の大多数に農業や造園業などの民間の仕事に従事する許可を与えるべきだと提案[4]。1789年2月、カール・テオドールは各都市の守備隊がそれぞれの都市に軍隊の庭園を配置することを命じた。それらの庭園は造園作業を通して兵士に農耕への知識を授けると同時に保養所としての役目も持ち、さらに一般への開放も意図されていた[5]

ミュンヘンでの庭園は市街地のシュバービンガー門の北に計画された。そこは中世を通してヴィッテルスバッハ家の狩猟地だった場所で Hirschanger または Hirschau(「鹿囲い」の意)と呼ばれていたが、元々庭園に含まれていなかった北端部は "Lower Hirschau" と呼ばれるようになった。南部の木々が茂った地域は Hirschangerwald と呼ばれている[6]。この地域はミュンヘンを流れるイーザル川の氾濫原だった。1790年、技師 Anton von Riedl が護岸堤防を作りその問題が解消された[7]

軍事庭園の工事は1789年7月に始まり、間もなく800メートル×200メートル弱の部分が整地された[8]。すぐにこれを公園として拡張するというアイデアが生まれ、軍事庭園はそのごく一部となった。1789年8月13日、カール・テオドールは Hirschanger を一般市民に開放すると宣言。同年8月初めには、イギリスで風景式庭園を学びカール・テオドールの下でシュヴェッツィンゲン城で働いていたフリードリッヒ・ルードヴィッヒ・フォン・シュケルを呼び寄せ、プロジェクトに参加させた[9]。公園開発に関連して様々な付随プロジェクトが開始された。当時創設された陸軍士官学校の庭 Elevengarten、牛の農場 Schweizerey、羊の農場 Schafery、農耕技術の改良を目指す農業学校 Ackerbauschule、家畜の治療のための獣医学校 Vihearzneyschule などが造園・建設された[10]。それらの多くは公園内に長く置かれたわけではなく、例えば獣医学校はミュンヘン大学の獣医学部となっている。フェテリンエル通りには1790年から存在する庭園の門がある[11]。元々は「テオドール公園」と名付けられたが、すぐに「イギリス庭園」という説明的な名称が一般化した[12]。1790年5月までに大部分が完成し、カール・テオドールが視察に訪れている。しかし、約4万人のミュンヘン市民に一般公開されたのは公式には1792年春のことだった[13]
その後の拡張1815年に作られた滝

1798年、トンプソンはミュンヘンを去った。後継者の Baron von Werneck は庭園を農場として使用して採算がとれるようにしようと試みた。そのため、1799年12月に牧草地とするために庭園を北に拡張した。軍事庭園のフィールドは1800年1月にイギリス庭園に追加された。Werneck の改修には費用がかさんだため、1804年にシュケルが後を受け継ぐことになり Bayerischer Hofgartenintendant(バイエルン宮廷庭園監督)という職が新設された[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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