エロ劇画誌
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エロ劇画誌(エロげきがし)は、成人向け漫画(いわゆる「エロ漫画」)の一種である「エロ劇画」を中心に掲載する雑誌のことである。2010年代まではコンビニやスタンドに売られている代表的なエロ本の1つであった。官能劇画誌や三流劇画誌ともいう。
概説

成人男性に対して性的な興奮を喚起すべく、ポルノグラフィの要素を前面に出した漫画(いわゆる「エロ漫画」)を中心に掲載する雑誌である。体裁としては「成人向けマンガ雑誌」であり、ほとんどはA4中綴じ。主たる内容は漫画で、その画風はあくまでも劇画である。普通は表紙の後ろにヌードグラビアが入る。また、巻末にギャグマンガが入るケースも多い。

「劇画」は、1960年代から1970年代にかけては若者の最先端のムーブメントであり、「エロ劇画誌」が誕生した1970年代前半には読み手も描き手も10代後半から20代にかけての若者が多かった。とりわけ「エロ劇画」は、内容は劇画調でエロが含まれていれば何でもよく、ある意味では間口は広かったことから、若い漫画家による新しい感覚の作品が多数発表され、1970年代後半には「エロ劇画ブーム」を生み出した。基本的には低俗なものと見なされており、「三流劇画誌」の異名を取ったが、ここから巣立って一般誌で活躍した漫画家も少なくない。あるいは、後に作家や映画監督など異分野のクリエーターとして活躍した者もいる。

ブームの最盛期である1970年代末から1980年代初頭にかけては、乱立したエロ劇画誌の紙面を埋めるためにエロくない漫画も掲載されたが、そこに混じって「一流劇画誌」では評価されない作家性の強い漫画家の作品も多数掲載され、「漫画ニューウェーブ運動」の一翼を担った。

また、この手の雑誌には必ず、エロ要素を含まない四コマ漫画等のショートギャグマンガが掲載されており、ここを舞台に活躍し、あるいは一般誌へ巣立った者もいる(蛭子能収いがらしみきお等)。

ジャンルの全盛期は1970 - 1980年代であったが、1980年代初頭の「ロリコン漫画ブーム」に押される形で、若者向けの最先端メディアとしての地位を譲ることになる。1990年代以降は中高年以上の世代向けの読み捨てメディアに堕したことから、漫画史において特筆される作品は存在せず、まともな論考は少ない。読者層の高齢化により、2000年代以降は衰退しており、2020年代以降は読者の寿命により、極めて少数派となっている。
歴史
前史
「おとな漫画誌」の誕生(1950年代後半)

1960年代まで、大人向けの漫画と子供向けの漫画が明確にジャンル分けされていた。当時「大人向けの漫画」とされたのは、戦前の漫画集団の系譜を継ぐ古典的な1コマ漫画で、漫画史においては「おとな漫画(大人漫画)」と呼ばれる。(一方、子供向けの漫画は「こども漫画」と呼ばれ、これが現代まで続く漫画の本流となっている)

「おとな漫画」は、大人向けの総合誌や新聞などに掲載されていたが、1950年代後半の「週刊誌ブーム」に乗り、「おとな漫画」だけを掲載した雑誌が創刊ラッシュとなる。主要な雑誌としては、『土曜漫画』(土曜漫画社、1956年創刊)『週刊漫画TIMES』(芳文社、1956年創刊、通称『週漫』)などがある。「おとな漫画」と言っても、大人が読むための雑誌なので、新聞に掲載されるような高尚なものではない。文藝春秋社の正統派「おとな漫画」雑誌である『漫画読本』(1954年創刊)でも普通におっぱいが出てきた。

文春の誇る『漫画読本』は別格として、1950年代後半当時の「おとな漫画誌」は、「おとな漫画」を主体としつつ、実話記事、エログラビアなどで構成される低俗な雑誌で、当時この手の雑誌の調査に当たっていた内閣官房内閣調査室の分類では「第二官能娯楽誌」に分類される[1]。『アサヒ芸能』や『週刊大衆』のような当時の一流低俗雑誌(第一官能娯楽誌)とは違い、一応(準)週刊誌の体裁を整えているだけで、終戦直後のカストリ雑誌の延長線上にあり、いつ潰れてもおかしくない「泡沫」のような雑誌だと1959年当時の内調は考えていた。『土曜漫画』1963年4月26日号が発禁を食らうなど、「わいせつ物」としてたびたび規制を食らった(もっとも、当時は規制が厳しく、当時の三大中間誌の『週刊新潮』あたりも普通に有害指定を食らっている)。1959年当時、この手の二流低俗雑誌の最大手であった『週漫』は25万部の発行部数があった。

1950年代に創刊されたゴミのような泡沫漫画雑誌のうち、『週漫』は生き残った。『週刊漫画TIMES』(通称『週漫』)、『週刊漫画サンデー』(実業之日本社、1959年創刊、通称『マンサン』)、『漫画娯楽読本』(日本文芸社、1964年創刊、通称『ゴラク』)が、1960年代当時の3大「おとな漫画雑誌」である。『漫画娯楽読本』は、その名の通り『漫画読本』の亜流雑誌で、実力派漫画家を揃えつつも成人男性向け「娯楽誌」として創刊当時から「女」「ギャンブル」「ゼニ」「キンタマ」「SEX」などを前面に出した「娯楽」記事が大量に載ってる下品な雑誌だった(そのためか、当時のマンサン編集長の峯島正行が手塚治虫を軸として大人漫画の時代を振り返った著書『回想 私の手塚治虫』では、『文春漫画読本』『漫画読売』『週漫』『マンサン』が取り上げられ、『ゴラク』は無視されているが、「おとな漫画」の退潮に伴い『文春漫画読本』は早期に廃刊し、現実に戦後漫画史を背負うのは『ゴラク』の方である)。

これらの「おとな漫画誌」が想定した読者層は、『週漫』のキャッチコピー「一週間をユカイに生きる!」に端的に現れているように、一週間単位で生活して月単位で給料をもらう、俸給生活者(サラリーマン)である。それなりの教養があり、社会的地位もあった。従って「おとな漫画誌」は、毎号ミサイルみたいなおっぱいが出てくる下品な「お色気漫画」が載っている低俗な雑誌と言っても、ある程度の格式があり、漫画を読むにもある程度の教養を要求された。また、執筆する漫画家も、新聞・テレビなど大マスコミでも活躍する人が多かったことから、社会的地位が高く、プライドも高かった。

時代は高度成長期に差し掛かり、サラリーマンが戦後の大衆の主流となりつつあったが、一方でその日暮らしの労働者が社会の底辺でもがいていた。労働者や学生、これが「エロ劇画」を生み出す直接の母体となった貸本劇画の消費層である。読者層の社会的地位は低く、彼らが読む貸本劇画の社会的評価も低く、執筆する漫画家の社会的地位も低かった。
「青年劇画誌」の誕生(1960年代後半)

劇画そのものの歴史は1950年代後半の貸本屋向け漫画(貸本漫画)に始まる。ディフォルメされた画風・作風の「漫画」に対して、よりリアルで映画的な描写を求める当時の若者のニーズに応えたものである。当初はそれほどエロチックなものはなかったが、1960年代には「劇画」の表現技法の発達により肉体を強調した作品が増え始める。

1960年代後半には「劇画ブーム」が起き、『漫画アクション』(双葉社、1967年創刊)、『ヤングコミック』(少年画報社、1967年創刊)、『ビッグコミック』(小学館、1968年創刊)に代表される「青年劇画誌」の創刊ラッシュとなった。エロい表紙の物が多く、特に『漫画アクション』の表紙を担当したモンキー・パンチの絵はかなりエロかった。

劇画の人気とおとな漫画の退潮を受け、前述の「おとな漫画誌」にも劇画が増え始める。例えば前述の『漫画娯楽読本』は、売れ行き不調のため劇画誌を志向し『漫画ゴラクdokuhon』(1968年)に誌名を変更。やはり『漫画アクション』を手本としたようで、同年より連載を開始した松本零士のエロSF漫画『セクサロイド』が当たり、大人漫画も何本か掲載されているものの、完全に劇画がメインとなった。当時の『ゴラク』の表紙を担当した松本零士の絵は、おっぱいがモロで非常にエロかった。ただし、松本零士が大きな影響を及ぼしたのはエロ劇画の「次」の世代であり、この時期の『ゴラク』でエロ劇画史的に重要な作家は歌川大雅や笠間しろうの方である。歌川大雅は1950年代には「岡友彦」の名で絵物語やイラストを描いていたが、1960年代になると「歌川大雅」を名乗って青年劇画誌や実話誌など様々なメディアでいかがわしい漫画やイラストを描いていた(一峰大二桑田次郎の師匠としても知られている)。歌川大雅は「劇画」というジャンルが確立する以前(絵物語と劇画・漫画との区別が不明瞭な時代)からエロ漫画的なものを描き、当時のエロ劇画的な表現はほとんど彼一人によって展開されていたことから、エロ漫画史家の米沢嘉博は、歌川大雅こそが「エロ劇画の大いなるルーツ」だとみなしている[2]

なお、ハイティーン以上の青年が「劇画」を読んでいたのに対し、ローティーン以下の少年は「こども漫画」を読んでいた。当然ながらエロい漫画に人気が集中した。これは当時「ハレンチ漫画」と呼ばれたジャンルである。特に『週刊少年ジャンプ』(集英社)に連載された永井豪ハレンチ学園』(1968年-)の人気は絶大で、1970年には「ハレンチ漫画追放運動」がおこるほどだった。
「エロ実話誌」の誕生(1960年代)


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