エロフェイ・ハバロフ
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エロフェイ・ハバロフの記念碑

エロフェイ・パヴロヴィチ・ハバロフ(エロフェイ・パヴロヴィチ・ハバローフ=スヴャティツキー、ロシア語: Ерофей Павлович Хабаро?в-Святитский, ローマ字表記の例: Yerofey Pavlovich Khabarov (Svyatitsky), 当時の記録ではヤロフェイ Ярофей とも表記、1603年頃生まれ - 1671年頃没)は、17世紀ロシア商人探検家アムール川流域を本格的に探検し、その植民地化を図った人物として知られている。ロシア極東の大都市ハバロフスク、およびアムール州シベリア鉄道沿いの町エロフェイ・パヴロヴィチは彼の名にちなんでいる[1]
生涯

ヨーロッパ・ロシアの北部で、白海に流れる北ドヴィナ川沿いにあるヴェリキイ・ウスチュグ付近で生まれた。生地には諸説あるが、スヴャティツキーというあだ名があることから、スヴャティツァ村という説も有力である。ヴェリキイ・ウスチュグの付近では、セミョン・デジニョフウラジーミル・アトラソフなど、シベリアや極東へ向かう商人や探検家を多く生んでいる。

ハバロフは近くのソリヴィチェゴドスクの町で、後の大富豪ストロガノフ家が営む製塩所で管理人となったが[2]、やがてシベリアでの交易に活路を見出した。1625年、ハバロフは西シベリアのトボリスクから、オビ川を下って河口にある港町マンガゼヤへと船で渡った。3年後、ハバロフはマンガゼヤから探検隊を率いて川船に乗って東へ向かい、丘を越えてヘタ川タイミル半島の南東の付け根へ流れる)に到達している。1630年にはマンガゼヤからトボリスクへ戻った。

今度は東シベリアへ向かい、1632年から1641年にかけてレナ川上流に住み毛皮などを商った。また、レナ川にクタ川やキレンガ川が合流するあたり(現在のウスチ=クート付近)に農業と製塩を営む集落を築き、経営を行っている。1641年には製粉所も設けたが、やがて当地のヴォエヴォダ(総督)のピョートル・ゴロヴィンと対立し、ヤクーツクの監獄に入れられるなどしている。
第一の探検(1649年-1650年)

1648年、ゴロヴィンに代わりドミトリー・フランツベコフがヤクーツクへ赴任する。ハバロフは新たな総督に対し、ヤクーツクの南方のダウリヤザバイカルおよび沿アムール地方西部の旧称)はレナ川流域よりも農業に適した地であるとしてダウリヤへの探検を行うことを請願し認められた。こうしてハバロフは、ヴァシーリー・ポヤルコフによる1643年から1646年のロシア人最初のアムール川探検に次ぎ、2回目となるアムール川探検を率いることになり、1649年春に自費で隊員や武装をまかなってヤクーツクを発った。

以前にポヤルコフが辿った往路はレナ川中流域の支流アルダン川を南へ遡るものだったが、何度も船をかついで山を越える困難な道のりであり、とても実用的な経路ではなかった。ハバロフは、レナ川上流の支流ヴィチム川を南へ遡ることにより、より容易にアムール川流域にたどり着けるのではないかと考えていた[3]1647年にはヤクーツクの猟師が、ヴィチム川の東を並行するオリョークマ川を遡るとアムール川上流にたどり着くはずだという報告を行っており、ハバロフはこれに基づいてオリョークマ川を遡る経路をとることにした。ハバロフ一行はレナ川からオリョークマ川に入り、支流のトゥングル川を遡り、その上流で船をかついで丘を越え、アムール川上流のシルカ川に達することに成功した。翌1650年の初めにはダウリヤに入ったが、すでにコサックらがレナ川流域で暴れまわっているという噂がこの地にも届いており、住民らは逃げ出していた。

良い土地と良い経路を発見したという成果を得て、ハバロフは1650年5月にヤクーツクに戻った。彼は報告の中でダウリヤを褒め称えたが、中国()による干渉の危険があることを警告し、次の探検は職業軍人が大規模に行うべきであることを提案した。
第二の探検(1650年-1653年)「清露国境紛争」も参照

提案に対するモスクワからの返事が遅れているため、フランツベコフ総督は自らの権限で探検隊を組織することを決め、ハバロフに大規模な部隊を与えて南へと送りだした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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