エレフテリオス・ヴェニゼロス
Ελευθ?ριο? Βενιζ?λο?
ギリシャ王国首相
任期
1910年10月6日 ? 1915年2月25日
君主ゲオルギオス1世
コンスタンティノス1世
前任者ステファノス・ドラグミス
エレフテリオス・ヴェニゼロス(Ελευθ?ριο? Βενιζ?λο?, 1864年8月23日 ? 1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期、12年に渡って断続的に長期間首相を務めた。ヴェニゼロスはヨーロッパの政治の舞台で活躍した数少ないギリシャ人政治家であり、イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した[1]。また、ギリシャがバルカン半島の政治における主導的勢力となったのもヴェニゼロスの手腕に依るところが大きい[2]。 1864年、当時、オスマン帝国領クレタ島のハニアで雑貨商の父キリアコス、母スティリアニの五番目の子として生まれた[# 1]。1866年から1872年にかけてギリシャ領のシロス島で暮らしたが、この時期にギリシャ国籍を取得したと言われる[4]。 ヴェニゼロスはアテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向にしたがってクレタ島に戻り商売の修行を積んだが[# 2]、父キリアコスの友人でギリシャの在クレタ総領事であったゲオルギオス・ジコマラス
幼年時代
1883年父キリアコスが死去するとアテネとクレタを往復して商売を続けながら家庭の面倒を見ていたが、1885年に経済状況が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。1886年にイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、イスタンブルのある著名なギリシャ人によるとクレタ島の人々がオスマン帝国からの離脱こそ望んでいるがギリシャへの統合は望んでいないと語っていたという話をアテネの新聞に述べた。これを聞いたクレタ島出身のアテネ大学学生ら5人がチェンバレンに意見するために面会を申し出たが、その中の代表がヴェニゼロスであったという。ヴェニゼロスはチェンバレンにクレタ島の人々がギリシャへの統合を望んでいることを雄弁に語り、チェンバレンはこれに感心したと言われている[# 3]。1887年には大学を卒業、クレタ島で弁護士を開業するとともに新聞「レフカ・オリ(el)」の編集、発行も行い、クレタ島の人々がまず団結して平和的状況をつくりそののちにギリシャへ統合すべきと説いた[7]。
地方政界へクレタ蜂起に参加したアクロティリにおけるヴェニゼロス(1897年)
1889年にヴェニゼロスはクレタ議会の議員に選出された。ヴェニゼロスはクレタ島をギリシャに統合するにはあまりにもギリシャ軍の近代化が進んでいないため、まだその時期にあらず、ヨーロッパ列強の助言を受けた上でチャンスを掴んで上手く行動すればクレタ島はギリシャに統合されると考えていた。ただ、これはクレタ島の統合に慎重なわけではなく1896年に発生したクレタ蜂起(el)の際にヴェニゼロスは指導者の一員として参加していた。ただし、この蜂起でクレタ島が即ギリシャに統合されるという夢物語は考えておらず、あくまでもこの蜂起を外交的に利用できると見抜いてのものであった。現にヨーロッパ列強がクレタ蜂起参加者が掲げていたギリシャの国旗に砲撃を加えた時、同じキリスト教を信仰するものがイスラムからの解放を目指すキリスト教徒を攻撃したとして欧米に大きな衝撃を与えた。その結果、クレタ島のギリシャ正教徒らは交渉相手として認められ、ヴェニゼロスも交渉団の一員として参加したが、これは1897年4月に希土戦争が発生すると打ち切られた[8]。エレフテリオス・ヴェニゼロス(1903年)
クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国のゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた[9]。
しかし、ゲオルギオス王子の統治は小心翼翼に見えたことからヴェニゼロスは「エノシス」を呼びかけ、臨時国民議会を招集、その結果、ゲオルギオスは総督を辞任し、元首相のアレクサンドロス・ザイミス(el)が後任となった。ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会、五人委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した[10][11]。