エレフテリオス・ヴェニゼロス
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エレフテリオス・ヴェニゼロス
Ελευθ?ριο? Βενιζ?λο?


ギリシャ王国首相
任期
1910年10月6日 ? 1915年2月25日
君主ゲオルギオス1世
コンスタンティノス1世
前任者ステファノス・ドラグミス
後任者ディミトリオス・グナリス
任期
1915年8月10日 ? 1915年9月24日
君主コンスタンティノス1世
前任者ディミトリオス・グナリス
後任者アレクサンドロス・ザイミス
任期
1917年6月14日 ? 1920年11月4日
君主アレクサンドロス1世
前任者アレクサンドロス・ザイミス
後任者ディミトリオス・ラリス
任期
1924年1月24日 ? 1924年2月19日
君主ゲオルギオス2世
前任者スティリアニス・ゴナタス
後任者ゲオルギオス・カファンタリス
任期
1928年7月4日 ? 1932年5月26日
大統領パヴロス・クンドゥリオティス
アレクサンドロス・ザイミス
前任者アレクサンドロス・ザイミス
後任者アレクサンドロス・パパナスタシオウ
任期
1932年6月5日 ? 1932年11月4日
大統領アレクサンドロス・ザイミス
前任者アレクサンドロス・パパナスタシオウ
後任者パナギス・ツァルダリス
任期
1933年1月16日 ? 1933年3月6日
大統領アレクサンドロス・ザイミス
前任者パナギス・ツァルダリス
後任者アレクサンドロス・オソネオス
クレタ州首相
任期
1910年5月2日 ? 1910年10月6日
前任者アレクサンドロス・ザイミス (高等弁務官)
クレタ州法務大臣兼外務大臣
任期
1908年 ? 1910年
クレタ州法務大臣
任期
1899年4月17日 ? 1901年3月18日

個人情報
生誕1864年8月23日
オスマン帝国クレタハニア、モウルニエス
(現在のギリシャクレタハニアエレフテリオス・ヴェニゼロス)
死没1936年3月18日(71歳)
フランスパリ
国籍ギリシャ
政党自由党
配偶者マリア(1891年?1894年)
エレナ(1921年?1936年)
親戚コンスタンディノス・ミツォタキス (甥)
子供キリアコス・ヴェニゼロス
ソフォクリス・ヴェニゼロス
出身校アテネ大学
専業政治家
革命家
議員
弁護士
法曹
ジャーナリスト
翻訳家
宗教ギリシャ正教
署名
公式サイト ⇒National Foundation Research "Eleftherios K. Venizelos"

エレフテリオス・ヴェニゼロス(Ελευθ?ριο? Βενιζ?λο?, 1864年8月23日 ? 1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期、12年に渡って断続的に長期間首相を務めた。ヴェニゼロスはヨーロッパの政治の舞台で活躍した数少ないギリシャ人政治家であり、イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した[1]。また、ギリシャがバルカン半島の政治における主導的勢力となったのもヴェニゼロスの手腕に依るところが大きい[2]
幼年時代


父キリアコス(左)
母スティリアニ(右)

1864年、当時、オスマン帝国クレタ島ハニアで雑貨商の父キリアコス、母スティリアニの五番目の子として生まれた[# 1]。1866年から1872年にかけてギリシャ領のシロス島で暮らしたが、この時期にギリシャ国籍を取得したと言われる[4]

ヴェニゼロスはアテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向にしたがってクレタ島に戻り商売の修行を積んだが[# 2]、父キリアコスの友人でギリシャの在クレタ総領事であったゲオルギオス・ジコマラス(el)はヴェニゼロスの聡明さに気づいており、父キリアコスを説得、アテネ大学法学部で学ぶことになった[5]ヴェニゼロスの生家

1883年父キリアコスが死去するとアテネとクレタを往復して商売を続けながら家庭の面倒を見ていたが、1885年に経済状況が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。1886年にイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、イスタンブルのある著名なギリシャ人によるとクレタ島の人々がオスマン帝国からの離脱こそ望んでいるがギリシャへの統合は望んでいないと語っていたという話をアテネの新聞に述べた。これを聞いたクレタ島出身のアテネ大学学生ら5人がチェンバレンに意見するために面会を申し出たが、その中の代表がヴェニゼロスであったという。ヴェニゼロスはチェンバレンにクレタ島の人々がギリシャへの統合を望んでいることを雄弁に語り、チェンバレンはこれに感心したと言われている[# 3]。1887年には大学を卒業、クレタ島で弁護士を開業するとともに新聞「レフカ・オリ(el)」の編集、発行も行い、クレタ島の人々がまず団結して平和的状況をつくりそののちにギリシャへ統合すべきと説いた[7]
地方政界へクレタ蜂起に参加したアクロティリにおけるヴェニゼロス(1897年)

1889年にヴェニゼロスはクレタ議会の議員に選出された。ヴェニゼロスはクレタ島をギリシャに統合するにはあまりにもギリシャ軍近代化が進んでいないため、まだその時期にあらず、ヨーロッパ列強の助言を受けた上でチャンスを掴んで上手く行動すればクレタ島はギリシャに統合されると考えていた。ただ、これはクレタ島の統合に慎重なわけではなく1896年に発生したクレタ蜂起(el)の際にヴェニゼロスは指導者の一員として参加していた。ただし、この蜂起でクレタ島が即ギリシャに統合されるという夢物語は考えておらず、あくまでもこの蜂起を外交的に利用できると見抜いてのものであった。現にヨーロッパ列強がクレタ蜂起参加者が掲げていたギリシャの国旗に砲撃を加えた時、同じキリスト教を信仰するものがイスラムからの解放を目指すキリスト教徒を攻撃したとして欧米に大きな衝撃を与えた。その結果、クレタ島のギリシャ正教徒らは交渉相手として認められ、ヴェニゼロスも交渉団の一員として参加したが、これは1897年4月に希土戦争が発生すると打ち切られた[8]エレフテリオス・ヴェニゼロス(1903年)

クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国ゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた[9]

しかし、ゲオルギオス王子の統治は小心翼翼に見えたことからヴェニゼロスは「エノシス」を呼びかけ、臨時国民議会を招集、その結果、ゲオルギオスは総督を辞任し、元首相のアレクサンドロス・ザイミス(el)が後任となった。ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会、五人委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した[10][11]


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