エレナ・デル・モンテネグロ
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エレナ・デル・モンテネグロ
Elena del Montenegro
イタリア王妃
エチオピア皇后
アルバニア王妃
1900年
在位イタリア王妃:
1900年7月29日 - 1946年5月9日
エチオピア皇后
1936年5月9日 - 1941年5月5日
アルバニア王妃
1939年4月16日 - 1943年9月8日

出生 (1873-01-08) 1873年1月8日
モンテネグロ公国ツェティニェ
死去 (1952-11-28) 1952年11月28日(79歳没)
フランスモンペリエ
埋葬1952年
フランスモンペリエ、サン=ラザール墓地
2017年12月15日
イタリアヴィコフォルテ、ヴィコフォルテ教会(改葬)
結婚1896年10月24日 クイリナーレ宮殿
配偶者ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
子女一覧参照

ヨランダ・マルゲリータ
マファルダ
ウンベルト2世
ジョヴァンナ
マリーア・フランチェスカ

家名ペトロヴィッチ=ニェゴシュ家
父親モンテネグロ王ニコラ1世
母親ミレナ・ヴコティッチ
宗教 モンテネグロ正教会カトリック
サイン
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エレナ・デル・モンテネグロ(イタリア語: Elena del Montenegro, 1873年1月8日 - 1952年11月28日)は、モンテネグロ王女で、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の妃。モンテネグロ名はイェレナ・ペトロヴィチ・ニェゴシュ(セルビア語: ?елена Петрови? ?егош)。
生涯
生い立ち

モンテネグロ公ニコラ1世と、その妃ミレナ・ヴコティッチの間の五女(第6子)として生まれ、兄弟姉妹と一緒に首都ツェティニェで育った。成長するとロシアに留学し、マリヤ・フョードロヴナ皇后の手元に引き取られて、貴族の娘が通うスモーリヌィ女学院で学んだあと、サンクトペテルブルクの大学で政治と哲学を学んだ。

1896年10月24日にローマクイリナーレ宮殿において、イタリア王ウンベルト1世の一人息子で王位継承者のナポリ公ヴィットーリオ・エマヌエーレと結婚した。この結婚に際し、エレナは正教からカトリックに改宗した。

夫のナポリ公ヴィットーリオは南欧屈指の名家であるサヴォイア家の当主という高貴な家柄だったが、私生活では小市民的で華美な生活を嫌う吝嗇家だった。また自身の病弱で小柄な体格に強い劣等感を持ち、その裏返しとして周囲に対して猜疑心が強く、頑固で融通が利かない人物だった。しかし献身的で教養もあったエレナとの夫婦仲は良く、跡継ぎを含めて1男4女を儲けている。
王妃

義父のウンベルト1世が暗殺(イタリア語版)されると、夫のナポリ公が1900年8月11日にヴィットーリオ・エマヌエーレ3世として王位に就いた。

1908年12月28日にメッシーナ地震が発生し、メッシーナレッジョ・ディ・カラブリアの街はほぼ壊滅、およそ7万人が死亡した。エレナは被災者を支援すべく、自分のサイン入り肖像写真を販売し、その売り上げを被災者のための復興資金に充てた。第一次世界大戦が勃発した際にも赤十字社の篤志看護婦として働き、カスタニェート・カルドゥッチの王家の別荘ヴィラ・マルゲリータを野戦病院として開放した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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