ルーマニアの政治家エレナ・チャウシェスクElena Ceau?escu
エレナ・チャウシェスク(撮影時期不明)
生年月日1916年1月7日
出生地 ルーマニア王国 ドゥンボヴィツァ県ペトレシティ
エレナ・チャウシェスク(ルーマニア語: Elena Ceau?escu、ルーマニア語発音: [e?lena t?e?a.u??esku]; 1916年1月7日[1] - 1989年12月25日)は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国閣僚評議会第一副議長、ルーマニア共産党中央委員会委員および党中央執行委員会委員を務めた。ルーマニア共産党書記長ならびにルーマニア社会主義共和国大統領、ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)の妻である。1980年代以降になると、夫のニコラエとともに個人崇拝の対象となり、「Mama Neamului」(「国民の母」)と呼ばれ、絶大な権勢を振るうようになった。
1989年12月22日にルーマニア国内で勃発した革命のおり、夫とともに首都・ブクレシュティから脱出してトゥルゴヴィシュテに着くも、その日のうちに軍隊に捕縛された。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salv?rii Na?ionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、エレナは夫・ニコラエとともに銃殺刑に処せられた[2]。
生い立ち1939年のエレナ
1916年1月7日、ルーマニア王国・ワラキア地方ドゥンボヴィツア郡ペトレシュティ(Petre?ti commune, Dambovi?a County)の農家にて、父、ナエ・ペトレスク(Nae Petrescu)と、母、アレクサンドリーナ・ペトレスク(Alexandrina Petrescu)の間に生まれた[1]。出生証明書に登録されている彼女の名前は「レヌーツァ・ペトレスク」(Lenu?a Petrescu)である。レヌーツァは小学校を卒業できず、満足な教育は受けられなかった[3]。彼女は音楽、体操、裁縫の面では優秀であった[4]。
兄のゲオルゲとともに首都・ブクレシュティに移住し、薬の実験室にて製造助手として働き、のちに化学繊維工場での職を得て、裁縫師として働いた[5]。
1937年、レヌーツァはルーマニア共産党に入党した。1939年、当時21歳であったニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceau?escu)と出会った。伝えられるところでは、チャウシェスクは一目でエレナに魅了され、彼女以外の女性に対しては恋心が芽生えることは無かったという[6]。チャウシェスクがたびたび刑務所に入っていたことにより、2人の関係はなかなか進展しなかった。1947年12月23日、2人は結婚した。
彼女はのちに自身の名前を「エレナ」に改めた。 1945年、エレナは共産党から外務省に派遣され、秘書官として働いたが、「無能」と判断され、解雇された。当時、外務省にいた同僚の1人、パーヴェル・クンパーノ(Pavel Campeanu)は、エレナについて、「彼女は新聞の発行元の区別が付かず、とても苦労していた。彼女は英語とフランス語を混ぜて使っていた」「彼女が建物の2階にいたり、終日不在であっても、不便に感じた者は誰もいませんでした」という。クンパーノは、ボブ・ワイリー(Bob Wylie)とジョージ・ギャロウェイ(George Galloway)の著書『The Collapse』を引用しつつ、「残念ながら、彼女は使い物にならなかったのです」と述懐している[7]。エレナは1950年に「この間、私も2度出産して苦労したが、精力的になるどころか、怠惰になっていた時期もある。私は本を読もうともせず、仕事への意欲も湧かなかった」と書き残している[4]。歴史学者のヴラディミール・ティスマナーノ
権力の掌握
1965年3月19日にゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)が肺癌で亡くなり、それに伴って夫のニコラエがルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握すると、エレナは夫が外国を訪問する際に公式に同行するようになった。1971年6月、夫婦が中華人民共和国を訪問し、毛沢東と江青と会談した際、エレナは江青が如何にして権力の座を維持しているか、に着目した。エレナは江青に触発され、ルーマニアにおける自身の政治的台頭を画策し始めるようになったと考えられている。6月15日、チャウシェスクは北朝鮮を訪問し、金日成と会談した。チャウシェスクは、毛沢東と金日成の個人崇拝(Cult of Personality)に強く影響され、中国や北朝鮮の政治体制を模倣するようになったとみられている[9][10][11][12]。