この項目では、一般的な用法について説明しています。主な作品など他の用法については「エレジー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
Elegie, ウィリアム・アドルフ・ブグロー (1899).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
エレジー(英語: elegy)は、悲しみを歌った詩などの文学作品、楽曲。日本語では悲歌(ひか)、哀歌(あいか)、挽歌(ばんか)などと訳される。
古代ギリシアのエレゲイア(?λεγε?α / elegeia)に由来するが、エレゲイアは特定の韻律を持った二行連で笛による伴奏とともに歌われるものを指し、必ずしも悲しい内容を歌ったわけではない[1]。 古代ギリシア語のエレゲイアはエレゴス(?λεγο?)という歌と関係し、古代ギリシア人はこの歌の起源が死者に対する哀悼歌であると考えていた。しかしながら現存するエレゲイアの主題にはさまざまなものがあるにもかかわらず、哀悼を内容とするものは存在しない[2]。哀悼歌としてはトレーノス(θρ?νο?)などの別のジャンルがあり、ピンダロスやシモーニデースの作品が知られる。 古典詩のエレゲイアの詩形、つまりエレゲイオン(elegeion, Elegiac couplet)は2つの行から成る連句である。最初の行はダクテュロス・ヘクサメトロス(長短短六歩格)で、それにダクテュロス・ペンタメトロスの行が続く。ダクテュロス・ペンタメトロスとは、2つのダクテュロス(長短短格)-長音節-2つのダクテュロス-長音節という韻律である。ダクテュロスはヘクサメトロス、ダクテュロスの中で、場所によってスポンデイオス(長長格)に置き換えることもでき(逆に置き換えなければならないこともある)、「-」を長音節、「u」を短音節、「U」を長音節か2つの短音節とすれば、次のようになる。 - U 。- U 。- U 。- U 。- u u 。- - - U 。- U 。- |。- u u 。- u u 。- ヘクサメトロスは叙事詩に使われる韻律で、使用する言語も叙事詩と共通していた。エレゲイアは叙事詩より下の詩形と見なされていたので、エレゲイア詩人は叙事詩を書くつもりでエレゲイアを書き、それを叙事詩と関係づけた。 エレゲイア詩の初期の例は、アルキロコスやシモーニデースで、叙事詩と同じくらい古い(アルキロコスは紀元前7世紀の人)。しかし、特筆すべきエレゲイア詩人はヘレニズム期のカリマコスで、ローマの詩人たち(エレギア(elegia)詩人かどうかは問わず)に多大なる影響を与えた。カリマコスは、叙事詩より短く簡潔なエレゲイアならより美しく、より評価に値するものが書けるという考えを広めた。 ローマ時代の代表的なエレギア詩人は、カトゥルス、プロペルティウス、ティブッルス、そしてオウィディウスで、世代が上のカトゥルスが他の3人を先導した。4人とも(とくにプロペルティウス)カリマコスの影響を強く受け、お互いの詩を詠み合った。カトゥルスとオウィディウスはエレゲイア以外の詩形で詩を書くこともあったが、プロペルティウスとティブッルスはそれはしなかった。 ローマでは叙事詩が公的・戦争的で固いものと考えられていたのに対し、エレギアは私的・平和的で柔らかいものと考えられた。とくにアウグストゥス時代初期には一人称による恋愛の(しばしば官能的な)詩がエレギア形式で書かれた[3]。 イギリスには元々エレジーの詩形はなかったが、1751年にトマス・グレイが書いた『墓畔の哀歌(Elegy Written in a Country Churchyard)』が多くの模倣者を生み、まもなくピンダロス風頌歌とエレジーの両方が当たり前のものになった。もっとも、グレイはエレジーという言葉を孤独と哀悼の詩に用い、ユーロジーには使わなかった。またグレイはギリシア、ローマの古典詩のエレゲイア詩形からエレジーを自由にした。 その後、サミュエル・テイラー・コールリッジが、エレジーは「思索にふける精神にもっとも自然な」形であり、詩人自らが思索できるならどんなテーマでも構わないと主張した。コールリッジは自分の定義がエレジーと抒情詩を融合させることだとわかってはいたが、自分が好きな抒情詩の「瞑想」的性質を重要視することと、グレイが大衆化させた種類のエレジーに言及することを続けた。ウィリアム・ワーズワースが『抒情詩集』の序文で、詩は「平安の中で瞑想された感情」から作られるべきだと言ったことは、これと似ている。ロマン主義以降、エレジーの定義は、元の「死者を追悼する詩」という狭義の意味に戻った。
古典詩
西洋近代詩
以下はシラーの「逍遥」(1795年初版)の例だが、テルモピュライの戦いの英雄のためにシモーニデースが書いたとされる有名な詩を同じ韻律でドイツ語に置き換えている。