エル・タヒン
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古代都市エル・タヒン
メキシコ

エル・タヒンの「壁龕のピラミッド」
英名El Tajin, Prehispanic City
仏名El Tajin, cite prehispanique
登録区分文化遺産
IUCN分類Ia
登録基準(3), (4)
登録年1992年
公式サイト世界遺産センター(英語)
使用方法表示
エル・タヒン(El Tajin)の位置図

エル・タヒン (El Tajin)は、古典期後期 (A.D.600-900) から後古典期前期 (A.D.900-1200) まで繁栄した祭祀センターであり、世界遺産に登録されている考古遺跡の一つである。ベラクルス州、パパンテカ山塊 (Sierra Papanteca) の脇、パパントラの町の南西8kmにある、二つの渓谷の間の北緯20°38′35″、西経97°22′39″の地点に位置する。エル・タヒンという名称は、タヒンと呼ばれる12人の老人がこの遺跡に住んでおり、彼らは雷雨の神であるという地元のトトナク族の神話伝承に由来している。前述のように現在トトナク人が近隣に住んでいるため、トトナク人の建てた都市とされてきたが、最近[いつ?]の研究の成果に伴いマヤ系のワステカ人によって建設されたものではないかという説が有力になりつつある。
研究史

エル・タヒンの存在は、1785年スペイン人技術者のディエゴ・ルイスによって初めて報告された。その後、1811年ドイツ人の地理学者で自然科学者であるアレクサンダー・フォン・フンボルトが訪れたのをはじめ、博物学に関心を持つ旅行家のファーザー・マルケス (Father Marques) 、写真家のテオベルト・マーラー (Teobert Maler) [注釈 1]、画家のCharles Nebelなどが訪れている。Nebelは、版画を1839年に公表している。エル・タヒンの石彫の図像研究を最初におこなったのは、エレン・スピンデンでその成果は1930年代のはじめごろに発表されている。アウグスティン・デ・ラ・ベガ (Agustin de la Vega) が壁龕のピラミッドの補強をはじめとして、エル・タヒンの建築物と石彫についての集成を作成している。1939年からJose Garicia Payonがエル・タヒンの北半分にあたるタヒン・チコのうち、南側の低い部分にある建造物A,B,C,D,Kとその南側に見下ろす位置にある壁龕のピラミッドをはじめ、3,4,5,15,23号の11ヶ所の建物の補強と復元を行なった際に、建物の層位的な前後関係と、テオティワカンの建造物との比較研究を行っている。

土器の研究は、ウィルフリッド・デュ・ソリエ (Wilfrido Du Solier) によって1939年からはじめられ、その成果は、1945年に国立人類学歴史学研究所(INAH)の年報で報告されている。その後Krotserによって1970年代にまで受け継がれ、土器の出土量から人口の推定も行われた[注釈 2]。さらに1984年にINAHとベラクルス大学によってProjecto Tajinとして測量、発掘調査を含めた全般的な調査と壁龕のピラミッドの修復が行われている。
編年エル・タヒンの遺構配置図

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年4月)

エル・タヒンの居住は、先古典期後期から原古典期ごろに始まり、全盛期にはその中核部59haに及ぶ都市に発展した。エル・タヒンを支える後背地には、数千haにわたって集落が散在していた。

先古典期後期から原古典期並行の時期には、壁龕のピラミッドと建造物4号の下層神殿が造られた。エル・タヒンの建築活動がさかんになるのは古典期前期からで、この時期に南半分の建設活動が行われた。その段階では、主軸方位は北から東へ20°ずれた方向に建造物が造られた。青いピラミッドと称される建造物3号が壁龕のピラミッドの前に造られた。

古典期前期のエル・タヒンの中央部には、「大広場」(Great Plaza) が設けられ、広場の東西南北は、アロヨ・グループ (Arroyo Group)と呼ばれる18,20,19,16号の四つのピラミッド神殿に囲まれている。そのまわりには、二つの球戯場をはじめとして北から東へ20°ずれた方向どおりか垂直方向に建物が築かれている。この時期の建物は表面に石を張った内部に瓦礫のような充填物を詰めていて、先古典期終末ころの遺物を含んでいる。

古典期中期になるとタヒン・チコを中心とした北半分が建築活動の中心になり、建物の主軸方位は主として東へ45°傾いた方向に変わっていく。北の球戯場、Great Xicalcoliuhquiがタヒン・チコから東へ見下ろす位置に造られるが主軸方位は同じである。タヒン・チコ自体は、王や貴族、神官などの支配階層の居住区として、南半分からは意識的に切り離す形で建設された。南側では壁龕のピラミッドがこの時期に完成している。

エル・タヒンは、古典期後期から終末期にかけて全盛を迎えた。その当時は人口2万人に達したと推定され、エル・タヒンが建設された谷の低い部分やタヒン・チコの低い部分が埋め立てられる大規模な整地工事が行われた。


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