エル・サント
エル・サントのマスク
プロフィール
リングネームルディー・グズマン
エル・オンブレ・ロホ
エル・エンマスカラード
エル・デモニオ・ネグロ
エル・ムルシエラゴ・セグンド
本名ロドルフォ・グスマン・ウエルタ
Rodolfo Guzman Huerta
ニックネーム聖者
白銀のマスクマン
誕生日1917年9月23日
死亡日 (1984-02-05) 1984年2月5日(66歳没)
出身地 メキシコ
イダルゴ州トゥランシンゴ
トレーナーブラック・グズマン
デビュー1934年6月28日(諸説あり)
引退1982年9月12日
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エル・サント(西: El Santo、「聖人」の意味、1917年9月23日 - 1984年2月5日)は、メキシコのプロレスラー、俳優であった。本名はロドルフォ・グスマン・ウエルタ(Rodolfo Guzman Huerta)。 白銀のマスクマン(El Enmascarado de Plata)というニックネームでも知られた。
エル・サントはおそらくラテンアメリカで最も著名なルチャドール(プロレスラー)であり、メキシコでは伝説的存在として語り継がれている。彼のプロレス界におけるキャリアは40年近くにもわたり、その存在はルチャリブレ(メキシコのプロレス)の枠を飛び越え、人々のヒーロー・正義のシンボルにまでなった。コミックや映画の主人公でヒーローを演じ、特に後者は彼の人気と神話の形成においてルチャリブレ以上の貢献を果たした。2018年にはWWE殿堂のレガシー部門に迎えられている[1]。
生い立ちエル・サント(1960年代)
1917年9月23日、ロドルフォ・グスマン・ウエルタはイダルゴ州トゥランシンゴにおいて、ヘスス・グスマン・カンプサーノとホセフィーナ・ウエルタ・デ・グスマンとの間に7人兄弟の5番目として生まれた。1920年代にメキシコシティのテピート地区に移住した。野球とアメリカンフットボールに親しんだのちルチャリブレに興味を持ち、柔術とグレコローマンレスリングを学んだ。
ルチャドールとしてデビューした日付については、いまだ正確には定まっていない。1934年6月28日アレナ・パラルビージョ・コスメルでの試合(本名使用)がそうだと主張する者もいれば、1935年メキシコシティのデポルティーボ・イスラスにおいてであるとする説もある。ともかく1930年にはすでにレスラーとしての位置を確立しており、ルディ・グスマン、エル・オンブレ・ロホ、エル・エンマスカラード、エル・デモニオ・ネグロ、エル・ムルシエラゴ・セグンドといったリングネームを使用していた。最後のリングネームは当時有名だったレスラー、ムルシエラゴ(「蝙蝠」の意)からの借用であり、ムルシエラゴ本人の異議申し立てにより、メキシコボクシング・ルチャ委員会はグスマンが「ムルシエラゴ」のリングネームを使用することを禁じた。 1940年代はじめに、グスマンはマリア・デ・ロス・アンヘレス・ロドリゲス・モンターニョと結婚し、その後10人の子をもうける。そのうちの一人が、のちに父と同じくルチャリブレの道において輝かしい成功を収めることになるエル・イホ・デル・サントである。 1942年、トレーナーであったヘスス・ロメリ(Jesus Lomeli)が新団体を設立するにあたって、彼に参加を呼びかけた。ヘススは彼に3つのリングネーム候補を挙げた。エル・サント(聖人)、エル・ディアブロ(悪魔)、エル・アンヘル(天使)の3つの中からロドルフォが選択したのは、最初の候補だった。こうして同年6月26日、アレナ・メヒコにおいて、「エル・サント」が誕生することとなった。デビュー当初は悪役(ルード)側で戦っていたが、のちに善玉(テクニコ)側へと転身した。新しいリングネームのもと自分自身のスタイル、敏捷さ、技のバラエティに磨きをかけ、その名声を高めていった。 1950年代になると、ホセ・グアダルーペ・クルスという芸術家兼編集者が、サントの漫画を出版するようになる。サントはその中でメキシコの歴史における最高のルチャドールとされ、彼に比肩しうるのは伝説の人物、カリマンだけであった。1950年代後半、プロレスラー兼俳優フェルナンド・オセスの誘いによって、サントは映画界へと足を踏み入れることになる。とはいえ、ルチャドールとしての活動を打ち切ることのない、二足の草蛙状態での俳優活動であった。こうして、映画俳優サントのデビュー作『サント対悪の頭脳 兄弟にブラック・グズマン
スターへの道
偶像への道
家族
2013年3月7日、エル・イホ・デル・サントの息子で孫のニエト・デル・サントがプロレスリング・ノアに留学したことが発表された[2]。
獲得タイトル