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出典検索?: "エル・サムライ"
エル・サムライ
プロフィール
リングネームエル・サムライ
松田 納
本名松田 納
ニックネームジュニアの巨人
北上の隼
哀愁のマスクマン
身長180cm
体重90kg
誕生日 (1966-04-19) 1966年4月19日(58歳)
出身地岩手県花巻市
所属スポルティーバエンターテイメント
スポーツ歴レスリング
トレーナー山本小鉄
木戸修
デビュー1986年7月24日
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エル・サムライ(1966年4月19日 - )は、日本の男性覆面レスラー。岩手県花巻市出身。血液型B型。本名:松田 納(まつだ おさむ)。 専修大学北上高等学校でレスリング部に所属。インターハイ・国体に出場するなど活躍し、卒業後の1985年4月、新日本プロレスに入門。同期に飯塚孝之(後に飯塚高史)がいる。 入門から約3ヶ月後、1986年7月24日、船木優治戦でデビュー。 1991年3月、メキシコへ初遠征。UWAエリアを中心に活動し、マスクマンエル・サムライ(文字通りスペイン語で「侍」)となる。 1992年3月に凱旋帰国し、帰国当初はレイジング・スタッフと試合を行うことが多く、サムライもほぼ毎回のようにマスク剥ぎに遭う。同年4月、第三回TO OF THE SUPER Jr.に初出場。決勝まで駒を進めるも、獣神サンダー・ライガーに敗れて準優勝という結果に終わる。なお、この時もマスクを剥がされている。リターン・マッチとなった6月、ライガーを下し第19代IWGPジュニアヘビー級王座を奪取する。8月にペガサス・キッド(クリス・ベノイ、後のワイルド・ペガサス)、10月にディーン・マレンコ、ライガーら強豪の挑戦を退け、3度の防衛を果たすも11月ウルティモ・ドラゴンに敗れ王座から陥落した。 1993年5月、ウルティモにリベンジを果たす形で第23代UWA世界ミドル級王座を獲得するが、わずか4日後のリターン・マッチに敗れて王座陥落。 1994年4月、SUPER J-CUP第一回大会にノミネート。一回戦で茂木正淑を下すも、ザ・グレート・サスケに敗れ二回戦で敗退した。 1995年12月、サブゥーを下し第25代UWA世界ジュニアライトヘビー級王座を獲得。同月にはスーパーJカップ2に出場するも、一回戦でドス・カラスに敗れ、姿を消した。 1996年3月、金本浩二に敗れ、UWA世界ジュニアライトヘビー級王座から陥落。同年6月、サスケを下して第28代WWF世界ライトヘビー級王座を獲得する。しかし約二ヶ月後の8月に行われたリターン・マッチに敗れ、王座から陥落した。 1997年6月、BEST OF THE SUPER Jr.IVに出場。決勝戦にて金本を下し、TOP OF THE SUPER Jr.の時代から数えて6回目の挑戦にして悲願の初優勝を遂げる。この試合でサムライは、金本の雪崩式リバース・フランケンシュタイナーを受け切ったシーンは印象強く、さらに終盤はマスクを剥がされ完全に素顔が露呈している状態だったため、ファンの間で語り草になる決勝戦となった。サムライはマスクを破られたため、試合後の記念撮影にはミル・マスカラスのマスクを被って応じている。なお余談ではあるが、試合を決めた雪崩式リバースDDTから垂直落下式リバースDDT(一度目は失敗)の一連の流れはPS用ソフト闘魂烈伝3にて通常よりも大きなダメージを与えられるクリティカルコンビネーションとして設定されている。さらに、同年7月にはライガーを下し第4代ジュニア7冠王座を獲得。IWGPジュニアヘビー・UWA世界ジュニアライトヘビー・WWF世界ライトヘビーの三王座は自身二度目の戴冠となるなど飛躍の契機を掴むも、わずか一ヶ月後の8月大谷晋二郎に敗れる形で一度も防衛することなく同王座から陥落となった。90年代後半、新日本プロレスが坂口征二社長体制の第二期ジュニア黄金期と呼ばれる時代になるとペガサス・ブラック・タイガー(二代目)・マレンコらと激闘を繰り広げ、金本・大谷・高岩竜一らトンガリコーンズが台頭して来ると、ライガー・保永昇男(保永引退後はケンドー・カシン)とタッグを組み若手の壁としてジュニア戦線を盛り上げた。この時代は、タッグマッチにおいてサムライが攻撃対象になることが多く、執拗にトンガリコーンズ(主に金本)から攻撃を受けたサムライが激昂し、試合度外視でリング外まで金本を追いかけ回して試合が成立しなくなる異例の事態が勃発している。当時、現場監督であった長州力が練習量の少ないサムライへの示しを含む制裁とはっぱをかける意味で「納(サムライ)を怒らせてみな、面白いから」とけしかけたともされ、事態の収拾に長州の腹心・保永が事情を知ってか知らずか試合中に奔走している。 2001年3月、サムライはライガーをパートナーに金本&田中稔(現:稔)のジュニア・スターズを下し、第6代IWGPジュニアタッグ王座獲得。自身初となるタッグ王座戴冠となった。7月、邪道&外道を相手に防衛線に挑むも、サムライが邪道からクロスフェイス・オブ・JADOでギブアップ負けを喫してしまい、王座から陥落した。しかし、11月には同じくライガーをパートナーにG1ジュニアタッグリーグ戦に出場し、優勝決定戦で同点の邪道&外道と対戦。邪道からCWアームロックでタップを奪い優勝して雪辱を果たす結果となった。 2004年4月、マスクを脱ぎ「松田納復帰戦」として西村修と素顔で対戦するも西村に敗れる。試合後のインタビューでは「やっぱりね、やってて恥ずかしいですね。今ひとつピンと来ないですね。自分としては、もうそんなやるつもりはないですけどね」と発言している。その後エル・サムライに戻している。 2005年2月、サムライは田口隆祐をパートナーに、稔&後藤洋央紀組を下し第16代IWGPジュニアタッグ王座を獲得する。が、7月にまたしても邪道&外道組に敗れ王座から陥落となった。奇しくも同じ月、またしてもクロスフェイス・オブ・JADOの前に敗れ去るという結果に終わった。 2007年9月、膝のケガによる長期欠場を発表した。これまでケガによる欠場はなく、エル・サムライ=ケガをしない選手という評判だったため珍しい事例を残す。 欠場中であった翌2008年2月、サムライは新日本プロレスを退団しフリーへ転向する。同月、サムライは全日本プロレスに登場し、NOSAWA論外、MAZADAから襲撃を受けていたカズ・ハヤシを救済、3月にはカズをパートナーにジュニアタッグリーグに出場。
来歴
デビューから1990年代
2000年代以降
新日本プロレス退団以降
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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