エル・グレコ
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音楽アルバムについては「エル・グレコ (アルバム)」をご覧ください。

エル・グレコ
自画像』 (1595-1600年)、メトロポリタン美術館 (ニューヨーク)
本名ドミニコス・テオトコプロス
誕生日1541年
出生地クレタ島カンディア
死没年1614年4月7日(1614-04-07)
国籍ギリシャ
運動・動向マニエリスム
芸術分野油彩画、彫刻、祭壇画
教育カンディア、ヴェネツィアトレド
代表作オルガス伯の埋葬
ウェブサイトhttps://ibiblio.org/wm/paint/auth/greco/
後援者フェリペ2世
影響を受けた
芸術家ティツィアーノティントレットミケランジェロジュリオ・クローヴィオヤコポ・バッサーノパルミジャニーノコレッジョ
影響を与えた
芸術家ホルヘ・マヌエル・テオトコプリパブロ・ピカソ
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エル・グレコ(El Greco、1541年 - 1614年4月7日[1])は、現在のギリシアクレタ島イラクリオ出身の画家。本名はドミニコス・テオトコプロス(Δομ?νικο? Θεοτοκ?πουλο?、ラテン文字転写:Dominikos Theotokopoulos)で、一般に知られるエル・グレコの名は、スペイン来訪前にイタリアにいたためイタリア語で「ギリシャ人」を意味するグレコにスペイン語の男性定冠詞エルがついた通称である[2]マニエリスム後期の巨匠として知られる。マドリードにあるプラド美術館には、グレコの作品が多数展示されている。
人物グレコの作品に書かれたサイン

ヴェネツィア共和国統治時代のクレタ島のカンディア(現イラクリオ)に生まれ、イタリアを経てスペインに渡り、トレドに暮らした。ギリシア人でありながらフェリペ2世に仕えようとしたが、グレコの作品はフェリペに評価されず、宮廷画家になることは叶わなかった。グレコは晩年に至るまで自身の作品にギリシア語の本名でサインをしていた。グレコの現存する作品のおよそ85%が聖人画を含む宗教画であり、10%は肖像画となっている[3]。グレコは絵画だけではなく、彫刻や建築の構想も手掛け、特にスペインにいた時期は建築に強い関心を寄せたが、実際に建物の建築をすることは無かった[4]。一方でグレコは自分が描いた油彩画が収められる祭壇衝立の設計、工房の彫刻家の人物像の原案の素描、建築家と共に祭壇衝立の設置される礼拝堂の建築、採光の考案なども手掛けた[5]
生涯
若年期生神女就寝

グレコは、1541年に当時ヴェネツィア共和国の支配下にあったクレタ島の首都であり港市であるカンディアで生まれた。ビザンティン帝国は1453年オスマン・トルコによって国としての歴史に幕を下ろした[6]。しかし旧支配地域ではビザンティン美術の伝統であるポスト・ビザンティンが残っていた。それはカンディアでも変わりなく、宗教祭事及び図像学的にカトリックとは異なった世界が形成されていた。グレコはその影響を受けて育った面もある。当時のグレコの作風にはポスト・ビザンティン美術の影響が見られる[7]。カンディアではこのように後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となり、同時に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられている。1563年にはイコン画家として独立していた[4]1566年に親方であるグレコがカンディアで金地に書いたキリストの受難図があり[8]、それをくじで売却するための査定の許可を求めている[4][9]。また同年、トマス・バレストラスによりテオトコプーロス兄弟が何らかの形で苦しめられていたことに対して、バレストラスがそれをやめなければガレー船送りにするというヴェネツィア政府の公文書による警告が残っている[8]。1561年から1565年はギリシアの技術でイタリアでのやり方で働く予定だったらしく、ヤコポ・バッサーノの門下の関係にあったことが指摘されている[10]
ヴェネツィア派との交流エル・グレコ『ジュリオ・クローヴィオの肖像』(1571年頃) カポディモンテ美術館ナポリ

グレコは1567年の春か夏、遅くとも1568年の春か夏にギリシャ系クロアチア人ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてヴェネツィアに渡っていた[11][注釈 1]。その際ティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入り、もしくは工房の外でその様式を学んだ可能性の方が高いことが指摘されている[4]。これによりグレコはビザンティン方式の一切を放棄したわけではなかった。しかし色彩遠近法解剖学、油彩技法の使用などの点でヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していった。他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識を習得した[11][12]。当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出して以来、美術の建築のメセナ[注釈 2]として世に知られていた。グレコは移住の際当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿知的サークルと交流を持ち、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りができた。また、それゆえに同家のカプラローラにあるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも参加したと考えられている。1570年までヴェネツィアに留まった。この頃の作品として、《モデナの三連祭壇画》(エステンセ美術館(英語版)、モデナ)、《エジプトへの逃避》(プラド美術館) 、『受胎告知』(プラド美術館) などがある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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