エル・イホ・デル・サント
[Wikipedia|▼Menu]

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: "エル・イホ・デル・サント" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年7月)

この記事は語句の内部リンク、見出しのマークアップなどスタイルマニュアルに沿った修正が必要です。ウィキペディアの体裁への修正にご協力ください(ヘルプ)。(2021年7月)

エル・イホ・デル・サント
銀色のマスクがエル・イホ・デル・サント、青いマスクがブルー・デモン・ジュニア
プロフィール
リングネームエル・コラック
エル・イホ・デル・サント
本名非公開
ニックネーム聖者二世
身長168cm
体重84kg
誕生日 (1963-08-02) 1963年8月2日(58歳)
出身地メキシコ
メキシコシティ
トレーナーラファエル・サラマンカ、エル・エンフェルメロ
デビュー1982年6月6日
テンプレートを表示

エル・イホ・デル・サント(El Hijo del Santo、1963年8月2日 - )は、メキシコシティ出身の覆面レスラー映画、アクションスターとしての活動も行う。実エル・サント。身長168cm、体重84kg。目次

1 来歴

2 特徴

3 評価

4 エピソード

5 後継者について

6 獲得タイトル

7 得意技

8 出典

9 外部リンク

来歴

1982年6月にデビュー

1983年に最優秀新人王と年間最高人気選手賞を同時に獲得し、はやくもトップレスラーの仲間入りを果たした。

1984年10月28日にUWA世界ライト級王座、1990年4月27日にはUWA世界ウェルター級王座を獲得し、UWA史上初の二階級同時制覇を達成した。この間1986年10月にWWA世界ライト級王座も獲得している。

一時期ルード(悪役)に転向。親族から反対もあったが、転向し活動(初代サントも当初はヒールヒールだった)。

1990年6月にユニバーサル・プロレスリングに参戦するため初来日。

1992年5月にAAA(トリプレ・ア)の旗揚げ戦に参加。

1993年11月5日にオクタゴンとのタッグチームでAAA世界タッグ王座を獲得した。

1994年11月に新日本プロレスで行われた「AAAルチャワールド」に参加したが、1995年8月にAAAを離脱した。

1996年CMLLにてルードに転向しライバルのネグロ・カサスを坊主頭に刈る。

1998年に再びリンピオに戻る。

2001年1月28日に全日本プロレス東京ドーム大会(ジャイアント馬場3周忌追悼興行&スタン・ハンセン引退セレモニー)にミル・マスカラスとのタッグで参加した。対戦相手はブルー・パンテルアルカンヘル・デ・ラムエルテ

2007年11月15日、フィリピンマニラで開催されたボクシング興行でルチャリブレ(メキシコ)の試合が組まれ、エル・イホ・デル・サントは日本人プロレスラーを相手に勝利した。

プロボクシングの主要4団体の1つであるWBCの会長ホセ・スライマンは25周年を迎えたエル・イホ・デル・サントに同年12月、そのプロレスにおける顕著な功績を讃えて「WBC世界レスリングチャンピオン」の称号とチャンピオンベルトを付与した。それはプロレスラーに対して初めて名目的に与えられたものであったが、エル・イホ・デル・サントはスライマンとこれに助力したエリック・モラレスに謝辞を述べ[1]、そのタイトルを2008年に数度防衛したとされている。

2013年、息子のニエト・デル・サントがプロレスリング・ノアに入門することが発表され[2]、同年6月3日に来日[3]

2019年3月4日 ロッシー小川ウルティモドラゴンらの後楽園ホールでのLUCHA LIBRE ESTRELLA FIESTAに出場する為来日。

メインイベントで、ウルティモ・ドラゴン、獅龍と組み、フェルサゲレーラシルバーキングディアマンテと対戦。

なめらかな動きとトペ・デ・クリスト、カバージョを披露。試合後には「ありがとーございまーす」と流ちょうな日本語で挨拶をした。
特徴

リングネームは、「El:英語のTheに相当する語」、「Hijo:息子」、「del:英語のof theに相当する語」、「Santo:聖なる(者)」という意味で、父の「El Santo」に倣って「聖なる者の息子(聖者二世)」という意味である。英語表記:The Son of the Saint。

技や身体の動きが正確かつ素早く華麗であり、飛び技の美しさには定評がある。

手が長く、カバージョ(キャメルクラッチ)の様な技でも、引く力が非常に強いと言われている。

プロレス以外でもスポーツ万能で、柔道空手などの格闘技や水泳も得意だという。

「マスク剥ぎマッチ」では無類の強さを発揮し、約40人のマスク剥ぎに成功した。これは長い歴史を誇るルチャリブレでも最多記録である。
評価

1983年に最優秀新人王と年間最高人気選手賞を同時に獲得し、はやくもトップレスラーの仲間入りを果たした。

1984年10月28日にUWA世界ライト級王座、1990年4月27日にはUWA世界ウェルター級王座を獲得し、UWA史上初の二階級同時制覇を達成した。この間

1986年10月にWWA世界ライト級王座も獲得している。

週刊ゴング増刊空中戦3 清水勉 「カリスマ性ではまだ父に及ばないが、空中戦の使い手としては父親であるエル・サントを超えている。特に3種類のフライングヘッドシザースは絶品。」


親のエル・サントが映画のアクションスターとしても出演し、プロレスの枠を超えた国民的ヒーローであり、メキシコ国内に留まらぬ南米でも著名なアクションスターでもあった。

メキシコでの知名度は初代サント、映画俳優業なども含めると、他の有名レスラーと比較しても断トツであり、

ウルティモ・ドラゴン曰く、メキシコでは力道山猪木、馬場に映画のスターである石原裕次郎を加えた位の存在。

オフィシャルショップを経営しており、メキシコの空港内にも店舗を構えている。世界で活躍するウルティモドラゴン曰く、そのようなレスラーは、世界でもサントだけとの事(サムライTVでの上記エストレージャフェスタの試合後のマイクと解説にて)。
エピソード


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:20 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef