エルヴィン・フォン・ベルツ
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エルヴィン・フォン・ベルツ

生誕1849年1月13日
ヴュルテンベルク王国ビーティッヒハイム=ビッシンゲン
死没1913年8月31日
ドイツ帝国シュトゥットガルト
職業医師医学者
配偶者花ベルツ
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エルヴィン・フォン・ベルツ(: Erwin von Balz、1849年1月13日 - 1913年8月31日)は、ドイツ帝国医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。東京帝国大学医科大学の前身となる東京医学校に着任すると、病理学、生理学、薬物学、内科学、産婦人科学、精神医学などを担当、講義だけでなく自ら病理解剖を執刀し、27年に渡り明治期の日本医学界に近代西洋医学を教え、医学発展と基礎を築いた。滞日は29年に及ぶ。
経歴

1849年ヴュルテンベルク王国ビーティヒハイム・ビッシンゲンで生まれる。

1866年テュービンゲン大学医学部に入学。

1869年ライプツィヒ大学医学部に転学、カール・アウグスト・ヴンダーリヒ (Karl August Wunderlich) 教授の下で内科を修める。

1870年軍医として普仏戦争に従軍。

1872年、ライプツィヒ大学医学部卒業。

1875年、ライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれる。

1876年明治9年)、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれる。

1881年(明治14年)、東海道御油宿愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコと結婚。

1897年(明治30年)、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。

1900年(明治33年)、勲一等瑞宝章を受章[1]

1902年(明治35年)、東京帝国大学退官、宮内省侍医を務める。

1905年(明治38年)、勲一等旭日大綬章を受章[1]。夫人とともにドイツへ帰国。熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務める。

1908年(明治41年)、伊藤博文の要請で再度来日[2]

1913年ドイツ帝国シュトゥットガルトにて心臓病のため死去(64歳没)[2]

家族

妻・戸田花子 (1864-1937)
[3]神田明神下で生まれる[4]。父の熊吉は御油宿の宿屋「戸田屋」の子孫だが、没落して一家離散し、江戸の荒井家に養子に入り、小売商を営んだ[4]。花子は1880年からベルツと同居を始めるが正式な入籍は渡独の前年。教育はないが、利発で美しかったという[4]。ベルツ没後も10年ほど滞独したが、ドイツ国籍が認められず、日本へ帰国したまま没した。晩年はベルツの友人だったユリウス・スクリバ家の日本人嫁が介護した[4]。著書に『欧洲大戦当時の独逸』がある。

長男・徳之助 (Erwin Toku, 1889-1945)、長女ウタ (1893-1896)。子供は4人とする説も[5]。長男トクの前に夭逝した第一子、トクの遊び相手として養女ギンがいた(一家が渡独前に12歳で急死)[4]。トク(国籍ドイツ)は、暁星学校在学中に11歳で両親とともに渡独し、建築を専攻[6]。「徳」は中国語のドイツ(徳国)から。父親の遺した『ベルツ日記』をナチス時代に出版し、第3帝国ドイツでもっとも有名な日系ドイツ人となった[7]。このときトクによって母親の出生や両親の出会いについてなどが『ベルツ日記』から削除されたという[4]。母親の影響で幼いころ歌舞伎に親しみ[4]、1938年にはベルリンで忠臣蔵の一部を舞台化した[8]。1940年から日本で暮らし、東京で病没。

孫・徳之助と妻ヘレーナの子として長男ハット(鳩。1916-1972)、次男クノー(久能。1918-1943)、長女ゲルヒルト・トーマ(1921年生)、その下に双子の男子ディーツとゲッツ(1925年生。二人とも1944年に戦死)[4]

ベルツの日本観

彼の日記や手紙を編集した『ベルツの日記』には、当時の西洋人から見た明治時代初期の日本の様子が詳細にわたって描写されている。そのうち来日当初に書かれた家族宛の手紙の中で、明治時代初期の日本が西洋文明を取り入れる様子を次のように述べている。日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した500年あまりの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}(「横領しようとしている」の異訳あり)[要出典]。

このように明治政府の西洋文明輸入政策を高く評価しその成果を認めつつ、また、明治日本の文明史的な特異性を指摘したうえで、他のお雇い外国人に対して次のような忠告をしている。このような大跳躍の場合、多くの物事は逆手にとられ、西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。このような当然のことに辟易してはならない。ところが、古いものから新しいものへと移りわたる道を日本人に教えるために招聘された者たちまで、このことに無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。われわれ外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけでなく、助言することなのだ。

文化人類学的素養を備えていた彼は、当時の日本の状況に関する自身の分析・把握を基にして、当時の日本の状況に無理解な同僚のお雇い教師たちを批判した。さらに、彼の批判は日本の知識人たちにも及ぶ。不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。

無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対する手厳しい批判が述べられている。また、日本固有の伝統文化の再評価を行うべきことを主張している。西洋科学の手法を押し付けるのではなく、あまりに性急にそのすべてを取り入れようとする日本人の姿勢を批判し、助言を行っている。

また大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。


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