エルヴィン・シュルホフ
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エルヴィン・シュルホフ
Erwin Schulhoff
シュルホフ(左、1931年)
基本情報
生誕1894年6月8日
オーストリア=ハンガリー帝国 プラハ
死没 (1942-08-24) 1942年8月24日(48歳没)
ドイツ国 バイエルン州 ヴァイセンブルク
職業作曲家、ピアニスト、指揮者
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エルヴィン・シュルホフ(シュールホフとも、英語: Erwin Schulhoff、チェコ語: Ervin Schulhoff、1894年6月8日 - 1942年8月18日)は、チェコ作曲家ピアニスト指揮者[1]ホロコースト犠牲者。ピアニストのユリウス・シュルホフ(英語版)(1825年-1898年)は彼の大叔父に当たる[2]

第一次世界大戦後のダダイスム運動の音楽家として重要な人物とされており[3]ジャズ実験音楽の要素を取り入れた曲など、あらゆるジャンルの作品を残し、生涯に作曲した作品は200作にのぼる[4]。しかしナチス・ドイツによってシュルホフの曲は「退廃音楽」という烙印を押され、演奏活動の禁止や作品の出版も認められなくなるなど迫害を受け、1942年強制収容所で命を落とした。

シュルホフの死後、彼の作品は半世紀にわたって日の目をみることはなかったが[5]テレージエンシュタットなどで迫害された他のチェコの作曲家(クラインウルマンハースなど)と同様に、再評価が進みつつある[4]
生涯
少年期

1894年、ドイツ系ユダヤ人の子としてプラハに生まれた[2]。家庭は裕福であり[6]、エルヴィンの母ルイーズは、ヨーロッパ中の有名な教師に連絡を取って幼いエルヴィンの指導のために雇い、エルヴィンを連れてあらゆるところに出かけた[7]。また幼い頃から母に連れられて沢山の演奏会に足を運び、マスカーニクーベリックなどのサインを集めていた[8]

ルイーズは特にドヴォルザークに息子を指導してもらうことにこだわったが、結局ドヴォルザークはルイーズの意に沿わず、直接指導することはなかった[7]。しかしドヴォルザークは後にエルヴィンの才能を認めて[7]、7歳のエルヴィンにピアノ・レッスンをつけられるよう推薦し[2]、10歳の頃には音楽院へ推薦した[1]。エルヴィン自身も後年の日記で「ドヴォルザークに生徒としては受け入れてもらえなかったが、彼にその後の方向を定められた」と綴っている[7]

ドヴォルザークの推薦を受けて、エルヴィンは1901年から Jindrich Kaan に師事してピアノのプライベート・レッスンを受け、1904年にはプラハ音楽院へ進学[2]。1906年以降はウィーンに移ってレッスンを受けた[7]。その練習は非常に厳しく、その甲斐あってシュルホフは非常に優れた演奏技術を身につけた[7]。のちにシュルホフは両親に連れられてライプツィヒに移り、14歳の時にライプツィヒ音楽院への入学を許可された[7]。そこでマックス・レーガーに師事し、作曲にも関心をもつようになった[9]。レーガーはブラームスJ.S.バッハベートーヴェンなどを課題としてレッスンを行い、シュルホフも好んでレーガーのレッスンを受けた[9]

ライプツィヒ音楽院を卒業後、シュルホフはコローニュ音楽院に留学してラザーロ・ウジェリ(ドイツ語版)にピアノを、フリッツ・シュタインバッハに作曲と指揮を師事した[9]。シュタインバッハは、シュルホフに器楽曲を作曲することも認め、レーガーの倍音構造を用いた「ヴァイオリンとピアノのための組曲 WV 18」(1912年)などの作品を残している[9]。また指揮では、リヒャルト・シュトラウスティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の指揮でヴュルナー賞を受賞した[10]

また1913年の夏には、作風に強い影響を受けたドビュッシーに個人レッスンを申し込み、フランスに出向いて作曲などを師事したが、平行5度など伝統的な和声進行で禁じられているメロディは使わないようにさせるなど、シュルホフの期待と異なる指導であったため、落胆してドビュッシーの指導を受けるのをやめた[11]
反戦主義からダダイスムへ

第一次世界大戦でシュルホフはオーストリア軍に徴兵されて従軍したが、その経験から自身の信条として反戦主義的な考えを持つようになった[1]。この徴兵経験は、シュルホフの政治的立場だけでなく文化的、芸術的な物の見方にも大きく影響を及ぼし、戦後はナショナリズムへの反発や軍隊への反対意識がより深く、過激なものとなった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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