エルンスト・ローベルト・クルツィウス
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エルンスト・ローベルト・クルツィウス人物情報
生誕 (1886-04-14)
1886年4月14日
ドイツ
死没1956年4月19日(1956-04-19)(70歳)
出身校ストラスブール大学ベルリン大学ハイデルベルク大学
学問
研究分野文献学文学
研究機関ボン大学
学位博士
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エルンスト・ローベルト・クルツィウス(Ernst Robert Curtius, 1886年4月14日 - 1956年4月19日)は、ドイツの文学研究者、文献学者ロマンス語文学批評家。1948年に出版された『Europaische Literatur und lateinisches Mittelalter』の著者として最もよく知られる。
経歴

1886年、アルザス地方のタンにてドイツ人の家庭に生まれた。祖父のエルンスト・クルツィウスと大叔父のゲオルク・クルツィウスは、ともに著名な学者だった。父のフリードリヒ・クルツィウスがアルザス=ロレーヌ地域のアウクスブルク派ルター派教会の総監督に任命されたため、家族はストラスブールに引っ越した。

クルツィウスは同地のストラスブール・プロテスタント・ギムナジウムからアビトゥーアを取得した[1]。その後ヨーロッパ各地を旅行し、フランス語と英語を流暢に話せるようになった。1906年から1912年にかけてクルツィウス一家と共に過ごしたアルベルト・シュヴァイツァーは、クルツィウスに近代フランス文学を紹介した。また、ロマンス語文献学者のグスタフ・グレーバーも彼に大きな影響を与えた人物である[1]。クルツィウスは文献学と哲学をストラスブール大学(博士号、1910年)、ベルリン大学ハイデルベルク大学で学んだ。1913年、グレーバーの指導のもとボン大学でハビリタチオン論文を執筆し、1914年より同大学で教えはじめた。しかし、第一次世界大戦によって研究は妨げられることになった。クルツィウスはフランスとポーランドに従軍し、1915年に負傷したのである。怪我の程度が重かったため、1916年には軍隊の任を解かれた。その後、ボン大学に戻り教育を再開した[1]
研究内容・業績

クルツィウスの著作の多くは、ナチスが力を持っていた時代に書かれたものであり、彼の人文学への関心は通常、全体主義に対する応答だと考えられている。クルツィウスの理解では、ヨーロッパ文学は、ギリシャ・ラテンの著述家によって始められ、中世まで連綿と続いた伝統に連なるものであり、これらの伝統の間に断絶があるとは認めなかった。歴史的時代を分割し、各国の文学が相互に関連性を持たない状態で分断されるような断絶を、彼は支持しなかったのである。フランス文学に大きな関心を抱いていたため、クルツィウスはキャリアの初期においてフランス文学の研究を進めていた。ドイツにおいてそれが敵国の文学と捉えられていた時代にである。クルツィウスがフランス文学に対してとった「人文的・英雄的」態度は、ドイツの国家主義的知識人の批判を集めることになった[2]

クルツィウスは1948年の著作『ヨーロッパ文学とラテン中世』によって最もよく知られている[3]。同著は中世ラテン文学とそれが後世の近代ヨーロッパ諸語で書かれた文学へもたらした影響について考察した主要な研究である。同著の第一の主張とは、標準的な「古代?中世?ルネサンス?近代」という文学史の時代区分は非生産的であり、それぞれの文学は連続性を持っている、というものである。第二の主張は、「ルネサンス期とそれ以降のヨーロッパ文学の多くを十全に理解するためには、中世ラテン文学におけるレトリックとの関連性について知っている必要がある。すなわち、定型表現、メタファー、フレーズの転換、あるいはクルツィウスの好む言い方を用いれば『トポイ(topoi)』についての知識が必要である」というものである[4]。同著の大きな功績は、文学的定型表現を学術的・批評的に議論するための概念である「文学的トポス(literary topos)」を導入したことにある[2][5]
著作

1919: Die literarischen Wegbereiter des neuen Frankreich大野俊一訳『現代フランスの文学開拓者』生活社、1944年、白日書院、1947年

1921: Maurice Barres und die geistigen Grundlagen des franzosischen Nationalismus

1923: Balzac長谷川玖一訳『バルザック研究』建設社、1934年野上巖訳『バルザック論』河出書房、1942年
小竹澄栄訳『バルザック論』みすず書房、1990年

1925: Franzosischer Geist im neuen Europa土方定一訳『仏蘭西文学』楽浪書院、1935年大野俊一訳『現代ヨーロッパにおけるフランス精神』生活社、1944年/角川文庫、1955年(抜粋版)大野俊一訳『現代ヨーロッパにおけるフランス精神』みすず書房、1980年。改訳版

1929: James Joyce und sein Ulysses

1931: Die franzosische Kultur大野俊一訳『フランス文化論』創元選書、1942年、再版1948年大野俊一訳『フランス文化論』みすず書房、1977年。


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