エルンスト・ルートヴィヒ_(ヘッセン大公)
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エルンスト・ルートヴィヒ
Ernst Ludwig
ヘッセン大公

在位1892年3月13日 - 1918年11月9日

全名Ernst Ludwig Karl Albrecht Wilhelm
エルンスト・ルートヴィヒ・カール・アルブレヒト・ヴィルヘルム
出生1868年11月25日
北ドイツ連邦
ヘッセン大公国ダルムシュタット
死去 (1937-10-09) 1937年10月9日(68歳没)
ドイツ国ヘッセン人民州オッフェンバッハ郡ランゲン
埋葬 
ドイツ国ヘッセン人民州 ダルムシュタット、ローゼンヘーエ霊廟
配偶者ヴィクトリア・メリタ・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ(1894-1901)
 エレオノーレ・ツー・ゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ(1905-1937)
子女エリーザベト(英語版)
ゲオルク・ドナトゥス
ルートヴィヒ
父親ルートヴィヒ4世
母親アリス
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1909年頃にロシア皇室ヨット『スタンダルト』号にて姪のオリガ

エルンスト・ルートヴィヒ(Ernst Ludwig Karl Albrecht Wilhelm, 1868年11月25日 - 1937年10月9日)は、ヘッセン大公国の第5代大公(在位:1892年 - 1918年)。大伯父はヘッセン大公ルートヴィヒ3世、曽祖父はヘッセン大公ルートヴィヒ2世、高祖父はヘッセン大公ルートヴィヒ1世。
生涯

大伯父ヘッセン大公ルートヴィヒ3世の治世中に後のヘッセン大公ルートヴィヒ4世とその妃でイギリス女王ヴィクトリアの娘であるアリスの間の長男(第4子)として、ダルムシュタットで生まれた。妹の一人はロシア皇帝ニコライ2世の皇后アリックス(アレクサンドラ・フョードロヴナ)である。

エルンストの幼年時代には、親族の死が続いた。彼が5歳の時、一緒に母アリスの寝室で遊んでいた2歳の弟フリードリヒが、窓から6メートル下へ誤って落ちた。最初は打撲だけで済んだかと思われたが、彼は遺伝性の血友病患者であったうえ、脳内出血でその日のうちに死亡した。彼は深い悲しみに沈み、「僕が死んだら、みんな一緒に僕と死んでよ。なんでみんなで一緒に死ねないの? フリードリヒみたいに、僕はひとりぼっちで死にたくないよ」と、乳母に言ったという。母アリスには、「天国で神様にお願いするんだ、またフリードリヒに会わせてくださいって」と言ったという。幼い弟の墓は、やがて一家の巡礼地となり、そのことがますます彼にとって一人で死ぬことの強迫観念となっていった。

1877年6月13日に大伯父ルートヴィヒ3世が71歳で死去して父が39歳で跡を継ぐと、8歳で世子になった。

1878年、ダルムシュタットをジフテリアの大流行が襲った。親族と過ごすため宮殿にいなかったエリーザベトを除く子供たち全員と大公が感染した。アリス大公妃は家族を看病し続けたが、11月15日に末妹マリーが死んだ。アリスは、マリーを可愛がっていたエルンストにそのことを知らせまいとしたが、エルンストは姉にマリーの死を知らされ、病床で泣き伏した。母は彼を慰めようとしたが、彼女自身が感染し、12月4日に急逝した。母の死は、彼にとって生涯の重荷となった。

1892年3月13日に父が死去し、エルンスト・ルートヴィヒは23歳で大公位を継いだ。1894年4月19日にザクセン=コーブルク=ゴータ公アルフレートの娘で母方の従妹にあたるヴィクトリア・メリタと、共通の祖母ヴィクトリア女王の祝福を受けて結婚した。2人には、エリーザベト大公女が生まれるが、結婚生活は不幸なものとなった。2人は次第に疎遠になり、ヴィクトリアは夫が同性愛者であることに苦しんだ。「馬小屋の手伝いから厨房の手伝いまで、片っ端から若い男を寝室に連れ込んでいた」と、のちに彼女は暴露している。大公夫妻は、1901年12月21日に離婚した。一人娘エリーザベトは、1903年に腸チフスで急死した。

世継ぎをもうけなければならないエルンスト・ルートヴィヒは、1905年2月2日にゾルムス=ホーエンゾルムス=リッヒ侯ヘルマンの娘エレオノーレと再婚し、ゲオルク・ドナトゥスとルートヴィヒの2人の息子が生まれた。


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