エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク
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リュディガー・フォン・シュターレンベルク(1683年)

エルンスト・リュディガー・フォン・シュターレンベルク(Ernst Rudiger von Starhemberg, 1638年1月12日 - 1701年1月4日)は、オーストリアの貴族・軍人。同じく軍人のグイード・フォン・シュターレンベルクは従弟に当たる。

グラーツで生まれオーストリア軍に入隊、ライモンド・モンテクッコリの下でオスマン帝国と戦い、1664年のセントゴットハールドの戦いでオスマン帝国を打ち破っている。1683年にオスマン帝国がウィーン遠征を敢行すると神聖ローマ皇帝レオポルト1世からウィーン防衛司令官に任じられ、7月から9月まで行われたオスマン帝国のウィーン攻撃を耐え抜き、オーストリアの勝利に貢献した(第二次ウィーン包囲)。戦後レオポルト1世から恩賞として元帥に任命された。

大トルコ戦争にも従軍したが、1686年ブダ包囲戦で重傷を負い引退、1688年から亡くなるまで軍事委員会総裁を務めた。1701年、ウィーンで62歳で亡くなり、遺体はウィーンのショッテン修道院に埋葬された[1]

フランスの亡命貴族だったプリンツ・オイゲンの力量を見抜き、1697年にオイゲンの従兄のバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと共にレオポルト1世にオイゲンを推薦、対オスマン帝国方面司令官に起用させ出世のきっかけを与えた[2]。また、20世紀に護国団を結成したエルンスト・シュターレンベルクは傍系の子孫に当たる。
脚注^ リケット、P38 - P40、マッケイ、P21。
^ リケット、P46、マッケイ、P45。

参考文献

リチャード・リケット
著、青山孝徳訳『オーストリア史』彩流社、1995年。

デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。

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