ドイツ国の政治家エルンスト・テールマンErnst Thalmann
1932年
生年月日1886年4月16日
出生地 ドイツ国
自由ハンザ都市ハンブルク
没年月日 (1944-08-18) 1944年8月18日(58歳没)
死没地 ドイツ国
テューリンゲン州
ブーヘンヴァルト強制収容所
出身校ハンブルクの小学校
前職港湾労働者、造船所労働者、倉庫労働者、蒸気船の火夫、馬車引き、陸軍軍人
所属政党 ドイツ社会民主党 →
ドイツ独立社会民主党 →
ドイツ共産党
称号二級鉄十字章、ハンザ同盟十字章
エルンスト・テールマン
Ernst Thalmann
所属組織 ドイツ帝国陸軍
赤色戦線戦士同盟 [注釈 2]
軍歴1906年 ? 1907年
1915年 ? 1918年
1924年 ? 1929年
最終階級兵 (Mannschaften) [注釈 3]
赤色戦線戦士同盟隊長
除隊後共産主義者、政治家
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エルンスト・テールマン(独: Ernst Thalmann、1886年4月16日 - 1944年8月18日)は、ヴァイマル共和政期のドイツの共産主義者、政治家。ドイツ共産党のスターリン化を押し進め、党の独裁体制を完成させた。 小学校しか出ていない無学な労働者出身だが、ドイツ共産党 (KPD)の左派として頭角を現す。ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンおよびコミンテルンの方針に忠実だったため、1925年にルート・フィッシャーがスターリンの不興を買って失脚した後にスターリンの後援を受けてドイツ共産党の議長に就任した。党をスターリン主義化し、独裁的な党指導や個人崇拝を推し進めた。テールマン率いる共産党は、選挙や街頭闘争においてドイツ社会民主党(SPD)や国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)と勢力を争ったが、1933年にナチ党が政権を掌握すると逮捕され、1944年にブーヘンヴァルト強制収容所で殺害された。 1886年4月16日にドイツ帝国自由都市ハンブルクの雑貨商人ヨハネス・テールマン(Johannes Thalmann)とその妻マグダレーナ(Magdalena, 旧姓Kohpeiss)の息子として生まれる[2]。 1892年から1893年にかけて両親が横領罪で1年の懲役を食らったため、里親の下で過ごした[2]。1893年から1900年までハンブルクの小学校(Volksschule)で学んだ後、家業を手伝うようになる[2]。
概要
経歴
共産党入党前
1903年にドイツ社会民主党(SPD)に入党[2]。1904年から1915年までハンブルクの港湾労働者、造船所労働者、倉庫労働者、蒸気船の火夫、馬車引きなど職を転々として働き、ドイツ貿易・運輸・交通労働者中央労働組合(Zentralverbands der Handels-, Transport- und Verkehrsarbeiter Deutschlands)で活動した[2]。1906年には政治警察からマークされた[2]。1913年にはローザ・ルクセンブルクのストライキの呼びかけを支持した[2]。
第一次世界大戦中の1915年1月に陸軍の召集令状を受けたのを機に靴屋の娘ローザ・コッホ(ドイツ語版)と結婚した。彼女との間に一人娘イルマ(ドイツ語版)を儲けている[2]。1915年から1918年にかけて陸軍に従軍し、西部戦線へ出征した[2]。二級鉄十字章、ハンザ同盟十字章(ドイツ語版)、戦傷章などを受勲した[3]。
1918年10月に帰国し、ドイツ革命の最中の11月にドイツ独立社会民主党(USPD)に入党している[2]。