ドイツ国の政治家エルンスト・カルテンブルンナーErnst Kaltenbrunner
1943年のカルテンブルンナー
生年月日1903年10月4日
出生地 オーストリア・ハンガリー帝国
リート・イム・インクライス
エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツの法律家、政治家。ナチス親衛隊(SS)高官。最終階級は親衛隊大将、武装親衛隊大将及び警察大将。
ナチス親衛隊(SS)の幹部の一人でオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦(英語版)後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。 1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス
生涯
前半生
7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している[1]。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった[3][4]。
1921年秋にグラーツのグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた[1][4][5]。1926年夏に法学博士の学位を取得している[1][5]。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた[2]。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている[4][6]。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した[6]。
1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した[7]。 1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した[4][7]。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した[4][5][7]。
オーストリア・ナチ時代