エルンスト・カルテンブルンナー
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ドイツ国政治家エルンスト・カルテンブルンナーErnst Kaltenbrunner
1943年のカルテンブルンナー
生年月日1903年10月4日
出生地 オーストリア・ハンガリー帝国
リート・イム・インクライス
没年月日 (1946-10-16) 1946年10月16日(43歳没)
死没地連合軍占領下ドイツ
バイエルン州ニュルンベルク
出身校グラーツ工科大学
前職弁護士
所属政党国家社会主義ドイツ労働者党
称号法学博士、親衛隊大将、警察大将、武装親衛隊大将、血の勲章戦功十字章騎士章
配偶者エリーザベト・エーデル
サイン
親衛隊上級地区
「エスターライヒ(のちドナウと改称)」指導者
在任期間1937年1月20日 - 1943年1月31日
「エスターライヒ(のちドナウと改称)」
親衛隊及び警察高級指導者
在任期間1938年9月11日 - 1943年1月31日
ドイツ国会議員
在任期間1939年1月 - 1945年5月
国家保安本部(RSHA)長官
在任期間1943年1月30日 - 1945年5月12日
インターポール総裁
在任期間1943年1月30日 - 1945年5月12日
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エルンスト・カルテンブルンナー(Ernst Kaltenbrunner, 1903年10月4日 - 1946年10月16日)は、オーストリア及びドイツ法律家政治家ナチス親衛隊(SS)高官。最終階級は親衛隊大将武装親衛隊大将及び警察大将。

ナチス親衛隊(SS)の幹部の一人でオーストリアの親衛隊及び警察高級指導者(HSSPF)を経て、ラインハルト・ハイドリヒの死後の1943年にRSHA長官となり、ヨーロッパにおいてユダヤ人の絶滅政策の執行にあたった。ドイツ敗戦(英語版)後にニュルンベルク国際軍事裁判において戦争犯罪人として起訴され、死刑宣告を受けて絞首刑に処せられた。
生涯
前半生

1903年、オーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州の工業都市リート・イム・インクライス(de:Ried im Innkreis)に生まれる。父は弁護士のフーゴ・カルテンブルンナー(Hugo Kaltenbrunner)。母はその妻テレーゼ(Therese)。カルテンブルンナー家はカトリック家庭で祖父の代から弁護士だった[1][2]

7歳までラープで育ち、1913年にリンツの実科ギムナジウムに入学。ギムナジウム在学中に汎ゲルマン主義的で反教権主義的なブルシェンシャフト「ホーエンスタウフェン」に加入している[1]。またこのギムナジウムにはアドルフ・アイヒマンも通っており、二人は友人だった[3][4]

1921年秋にグラーツグラーツ工科大学に入学した。はじめ化学を専攻したが、1923年に法学に転じた[1][4][5]。1926年夏に法学博士の学位を取得している[1][5]。カルテンブルンナー本人によれば彼の大学生活は、炭鉱で夜勤をしながらの苦学だったといい、しばしば自分が労働者の友である事を強調していた[2]。大学在学中にブルシェンシャフト「アルミニア」に加わっている[4][6]。カルテンブルンナーは熱心な活動家であり、団体の中心的役割を占めた。汎ゲルマン主義、反教権主義、反ユダヤ主義、反自由主義思想などに影響され、ドイツ人によるドイツ・オーストリア統一を目指した[6]

1926年にグラーツからリンツへ移り、リンツ地方裁判所において司法官試補の研修を受けた。1928年には弁護士の事務所に就職した[7]
オーストリア・ナチ時代

1928年に国粋主義的体操クラブ、1929年に護国団の準軍事活動に参加した[4][7]。しかしこれらの団体はカルテンブルンナーの主目的であったドイツによるオーストリア併合に充分熱心とは言えなかったため、彼は1930年10月18日にオーストリアの国家社会主義ドイツ労働者党に入党した[4][5][7]


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