エルンスト・カシミール
Ernst Casimir
ナッサウ=ディーツ伯
在位1607年 - 1632年
出生 (1573-12-22) 1573年12月22日
ディレンブルク
死去 (1632-06-02) 1632年6月2日(58歳没)
ルールモント
配偶者ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
子女ヘンドリック・カシミール1世
ウィレム・フレデリック
エリーザベト
ヤン・エルンスト
マウリッツ
エリーザベト・フリーゾ
家名オラニエ=ナッサウ家
父親ナッサウ=ディレンブルク伯ヨハン6世
母親エリーザベト・フォン・ロイヒテンベルク
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エルンスト・カシミールまたはエルンスト・カジミール(蘭:Ernst Casimir van Nassau-Dietz;独:Ernst Casimir von Nassau-Diez, 1573年12月22日 - 1632年6月2日)は、ナッサウ=ディーツ
伯(在位:1607年 - 1632年)、フリースラント州、フローニンゲン州、ドレンテ州の総督。ナッサウ=ディレンブルク伯ヤン6世(ヨハン6世)とその最初の妻でロイヒテンベルク方伯ゲオルク3世の娘であるエリーザベト(Elisabeth van Leuchtenberg
)の間の5男として生まれた。1607年3月30日、父の領地を兄弟と分割相続し、ナッサウ=ディーツ伯を名乗った。1620年、長兄のディレンブルク伯ウィレム・ローデウェイクが亡くなると、フリースラント州総督職を引き継いだ。その5年後の1625年にはフローニンゲンとドレンテの州総督をも兼ね、1632年に亡くなるまで務めた。エルンスト・カシミールは八十年戦争の司令官の1人として、1627年のフロンロ包囲戦や1629年のスヘルトーヘンボス包囲戦に参加した。また、州総督として1628年にニューエスハンス(現在のバート・ニューエスハンス)の要塞を建設した。1632年、ルールモントでの戦闘中、塹壕を視察していた際に流れ弾に当たって亡くなった。 1607年、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウスの娘ゾフィー・ヘートヴィヒと結婚した。間に生まれた子供のうち、成人したのは息子2人だけだった。 公職
子女
ヘンドリック・カシミール1世(1612年 - 1640年)
ウィレム・フレデリック(1613年 - 1664年)
エリーザベト(1614年)
ヤン・エルンスト(1617年)
マウリッツ(1619年 - 1628年)
エリーザベト・フリーゾ(1620年 - 1628年)
先代
ウィレム・ローデウェイクフリースラント州総督
1620年 - 1632年次代
ヘンドリック・カシミール1世
先代
マウリッツフローニンゲン州・ドレンテ州総督
1625年 - 1632年次代
ヘンドリック・カシミール1世
爵位・家督
先代
新しく創設ナッサウ=ディーツ伯
1607年 - 1632年次代
ヘンドリック・カシミール1世
全般
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