旗
紋章
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯54度10分0秒 東経19度24分0秒 / 北緯54.16667度 東経19.40000度 / 54.16667; 19.40000
エルブロンク (波: Elbl?g [??lbl??k] ( 音声ファイル)、独: Elbing、羅: Elbinga)は、ポーランド北部の港湾都市[2]。ヴァルミア=マズールィ県に属し、エルブロンク郡の郡都である。1975年まではグダンスク県の県都、1998年までエルブロンク県の県都であった。
市は、およそ10キロメートル北のヴィストゥラ潟へ注ぐエルブロンク川に面した港湾を持つ。こことバルト海の間にあるビスワ砂州の付け根に深さ運河がつくられ2022年9月27日に開通記念式典が催され、エルブロンクへの航路の浚渫も行なわれている[2]。かつては船舶がロシア連邦の飛び地領土カリーニングラード州が管轄する砂州北東部にある海峡[2](バルチースク水道)を経由しなければならなかったが、ロシア連邦による航行妨害が相次ぎ、ポーランド領海のみを経由する運河を開鑿した[2]。 初めてエルブロンクの前身であるイルフィング(Ilfing)がThe Voyages of Ohthere and Wulfstan
概要
中世ヨーロッパ、プルーセン人の定住地トルソはドルズノ湖に近接していた。現在のエルブロンクはプルーセン人の一部族ポゲサニア(en)の土地にあった。定住地は10世紀に焼け落ちた[3]。ドイツ騎士団が地方を征服、そして住民らはその過程で追い散らされた。騎士団は湖畔に城を築き、エルビング(Elbing)の町を築いた。ここに移り住んだのは、リューベック出身の者がほとんどだった。現在の湖はさらに小さくなり、もはや市には達しない。ドイツ騎士団の敗退と住民による城の破壊の後、1466年に市はポーランド王国の宗主権の元へ入った。1772年にはプロイセン王国、1871年にはドイツ帝国の一部であった。
第二次世界大戦(独ソ戦)でエルビングは壊滅的な被害を受け、戦争末期にはドイツ系のエルビング住民がドイツ人追放によって市を追われた。1945年にポーランドの一部となり、ポーランド人がその人口の大半を占めるようになった。旧市街の復元は1989年より本格的に始まった。2006年の時点で街並みの75%が昔の姿を正確に取り戻しており、現在も復元は続けられている。
地理ヴィストゥラ潟ドルズノ湖の位置
旧市街(ポーランド語: Stare Miasto)は、ドルズノ湖からヴィストゥラ潟へとつながるエルブロンク川岸にあり、潟からおよそ10キロメートル、グダンスクからおよそ80キロメートルである。市は、第二次世界大戦末期にはその65%が壊滅的な被害を受けた。それでも建っていた多くの建物は、同じく戦争で破壊されたグダンスクやワルシャワを再建するための煉瓦として、共産主義者によって持ちさられ、その後にほとんど全体的に破壊された。市の新たな住民はすぐに市内部の部分を再建に取りかかった。およそ2,000軒の建物がかつての建築様式を見習って再建し始めた。多くのケースで、同じ基礎と、同じ壁の部分と古い煉瓦とを役立てた。しかし、市の西岸部分は完全に戦後一新された。
現在の市は、ドルズノ湖とエルブロンク湾(Zatoka Elbl?ska)の間の距離50%以上を占めている。この湾はヴィストゥラ潟の入り江で、川の両側に伸びるが特に東が深い。東部はエルブロンク高地(Wysoczyzna Elbl?ska)で、氷河の圧縮によって押し上げられたドームである。